IWABEメッセージ
第31回「綴り方覚え書き」
綴り方とは、昔の小学校の授業科目の1つで、そこでは作文方法、つまり文章の書き方について教えられていました。従って「綴り方覚え書き」を言い換えると「文章の書き方に関する備忘録」ということになります。
今になってこのようなことを記すのには訳があります。幼い頃に言葉を話すようになり、ひらがなを覚えるようになって以来、様々な人々から様々な機会に作文上の技法やらマナー・エチケットやらを教わってきましたけれども、その教えられたことが、時間が経つにつれて「我流」という妙な色に汚染され、薄れ消え去りつつあるのではないかという強迫観念に襲われたため、記憶が残っているうちに(体に染み込んだものが消失する前に)多少なりとも記述しておこうと思ったのです。変化は成長とばかりは言い切れぬところの不安がそこにはあります。
特に学生時代の恩師からは、論文執筆時や外国語翻訳時の「作文の作法」について徹底的に指導を受けました。私が現在書いている文章スタイルの基本はこの時に叩き込まれ形作られたと言ってもよいでしょう。論文を書く際には、とことん考え抜いた上の成果となる「うわずみ」だけを文章化しますし、何より読者をその専門分野の研究者に限定しているので、容易に通じやすくするためにテクニカル・ターム(専門用語)を多用するのは仕方のないところです。しかし結果として、当時の論文などを読み返すと、隙が無い分油断できず、読むのに疲れてしまうガチガチの文章であったことがよくわかります。まだまだ修業不足、未熟であるということでしょう。
社会人となり、会社という組織に属してからは、ビジネス文書のルールや表現技法について、これまた徹底的に指導してくれる上司に恵まれたため、それまでの自分の文章スタイルはその態様に多くのアレンジが加わることになり、言わば「応用編」にさらに踏み込んだ感覚を覚えました。
これらの指導をする側にも、また受ける側にも等しく存在していたのが、「言葉への畏敬」であり「言葉へのこだわり」であったと断言してよいでしょう。これらを大切にしたいという強い思いを抱きつつ日々過ごしているものの、時の流れと自身の変容に抗うことの難しさ故、以下あれこれと書き記しておくことにします。
そもそも文章の性格は、作文者の「思想」(ものごとに関する基本的な考え方、価値判断の基準など)によって大きく左右されます。「思想」は一夜にして成らず、長い時間の中で醸成される「コア」であり、一時的で表面的なテクニックで変動し得ない性質を有します。
もう1つ、文章の性格を決める大きな要素は「言葉遣い」、即ち、言葉の操り方、言葉による表現の仕方です。この「言葉遣い」と「思想」との連関については、主題から離れるのでここでは言及しません。とにもかくにも、それでは「言葉遣い」で注意すべきとされた要点とは何なのか。思い出しながら列挙してみることにしましょう。
① 文章言葉と話し言葉……作文とは文章を作るということですので、講演会用の原稿でも漫才の台本でも、くだけた表現はできても所詮文章言葉的となり、実際に話す言葉とは大分ニュアンスが違ってきます。発言の忠実な記録たる議事録でも同じことです。文字表現の限界なのでしょう。文章化にあたっては、話し言葉と文章言葉という両極の間を行ったり来たりしつつ、与えられた条件下で最善のポイント(最も相応しい言葉の「具合」「姿」)を見つけ出すことが大切になります。
② 主体・対象・状況……具体的に言えば、「大臣名の文章か、一般職員名のそれか」、「怒っているのか、褒めているのか」、「目上向けか、それ以外向けか」、「大勢の人に伝えるのか、特定の人に伝えるのか」、「朗読原稿か、印刷配布資料か、はたまたその両方か」、「厳粛なる式典で使われるのか、身内の雑談会で参考にされるのか」、「長文が許されるのか、簡潔に短くすべきなのか」、「慣用表現に拘束されるのか、任意表現が認められるのか」、「格調高くあるべきか、柔らかくフランクであるべきか」といったことです。要は、誰が、誰を相手に、どのような状況で、いかなる文調を駆使して表現するかということです。この判断は文章の性格を決める場合の座標軸となり、十分な見極めが不可欠です。
③ 聞いてわかる文章……「その文章を一度読んでみなさい。聞いてわかる文章でなければなりません」という指摘は、まさに至言であると同時に「行なうは難し」でもあります。主語述語を明確にし、過度な修飾語の羅列や自己満足的な知識の披歴を極力避けながら、いかにして趣旨をわかりやすく伝えるか。何度も推敲を重ね、時に口に出して読みながら、自然な形で聞いてわかるぐらいのところを意識するしかありません。それでもなお、あえて造語を用いるならば、「文風豊かで、文格高い」ところを目指すよう心掛けたいものです。
④ 「が」は多用しない……例えば「文を書いたのだが、大変疲れた」のように、文章と文章をつなぐ時の助詞「が」です。清水幾多郎氏の言を俟つまでもなく、この「が」は、使い勝手はよいものの、働きは逆接なのか順接なのか、ただの小休止なのか曖昧で、結果文章のつながりや内容がわかりにくくなってしまいます。長文化を避けるためにも、一旦文章を切り、何らかの接続詞を使って次につなげた方がよいこともあります。最近私はこの教えを破りがちで反省することしきりです。
⑤ 長文は避ける……上記のとおり、文意がぼやけますし、読むのも億劫でしょう。どうしても長文になったら、次に来る文章は短めにするなどして全体のバランスやリズムに配慮することを要します。これもまた猛省している点です。汗顔の至り。
⑥ 漢字の頻用に注意……パソコンを使うと要らぬところまで漢字変換してくれます。しかし、「漢字の効用」ということがあります。わかりやすく言うと、全部ひらがなの文章があるとして、そこに漢字を使う理由は、漢字それ自体が意味を持ち、すぐさま視覚的に一定のイメージを連想させることができる上に、同音異義語との区別も容易にしてくれますし、何より文章を引き締め、文章の進行に強弱やリズムを与えることができるという点にあります。必要な時に重点的に漢字を使えば、ほどよく読みやすく、流れのある美しい文章になるでしょう。
⑦ 句読点の打ち方……句読点は、文章にメリハリをつけます。流れを止めたり、減速させないためにも、これまた一度小声で読んでみれば、句読点の打ちどころは見えてきます。
⑧ 同じ表現の連続使用や多用は避ける……「思う」という言葉には、「思われる」「思料する」「思案する」「考える」「考察する」「感じる」「覚える」「見る」「存じる」等々の似通った表現が沢山あります。文章を単調にしないためにも使い分けが求められます。これは語彙力にも関わるので、日頃から本や新聞で出くわす面白い表現を心に留め、文章に彩りと豊かさをあたえられるようにしたいものです。
以上、雑感です。相当偉そうなことを書き連ねましたのに、私自身全くその域には達していないのが現状です。達していないのに教えを忘れ、自分の文体が崩れていきつつあるという有様にかなりの危機感と焦燥感を抱いているが故に、この場を借りて文字に残した次第なのです。
我々の生活は言葉や文章で成り立っています。会社組織も同じです。会社には社外から多くの文書が送られ、社内では無数の文書が処理され、また社外に発信されています。会社における文書は、まるで血液のようです。ドロドロしていて流れが悪くてはだめで、スピーディーに流れなくてはいけません。とは言え、流れが速くさえあればよいわけではなく、成分がよくなくてはならないのです。つまりは、補足説明が要らぬほどに、正しく適切な形式と内容を備えた文書であって初めて健全な組織を維持する働きが期待されるということでしょう。
ここで大切なことを繰り返すならば、それは勿論「言葉への畏敬」、「言葉へのこだわり」に他なりません。
新しい年となりました。新しい御世になっても、当社の掲げる1つの経営理念・2つの経営方針・7つの行動指針は一貫して不変です。第67期も後半戦、今期の目標を現実にするとともに、来期以降を見据えて、引き続き職務に邁進していきます。派手さはなくとも丁寧な仕事を愚直に積み重ねていく中にこそ光る個性や持ち味を存分に発揮し、安全最重視にてともに着実に前へ進んでいきましょう。今年もよろしくお願いします。ご安全に。