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第46回「難しいからこそ」

 何もかもが異例ずくめで戸惑うことばかりの中、前例に頼らずに知恵を絞り、何とか物事を前へと進めようと奮戦する。誰もが今置かれている状況でしょう。その意味で今年の卒業式や入学式も異例でした。
 それぞれの学校で設営や進行の仕方に違いはあるものの、大体のところがマスク着用、手指アルコール消毒、座席の間隔を空ける、在校生と来賓の出席はなし、保護者の出席も人数限定、式次第は簡略化して時間短縮等の対応が取られていたようです。私が出席した小学校の卒業式について言えば、3月の初めに急遽第3学期終了となってしまったため、児童が先生や級友と再会できるのは卒業式当日ということになり、従って当然卒業式そのものの予行練習も行なわれていなかったのです。式で唱う「卒業の歌」の練習も同じことです。つまり児童達は、卒業式当日に、保護者達が会場(体育館)に入る直前の短時間で式の流れを教えてもらい、簡単な練習をしただけで本番に臨んだということなのです。ほぼ「ぶっつけ本番」です。卒業式の日に卒業証書と通信簿をもらい、慌ただしくも皆とお別れせざるを得なくなりました。緊急事態で致し方なかったとは言え、まさしく異例でした。異例ではありましたが、多くの困難や制約に直面しても、先生方は何とかよい卒業式にしよう、思い出に残る素晴らしい瞬間を体験してもらおうと精一杯の工夫をし、児童達もしっかりとそれに応えて見事な式典を作り上げることができたのです。実に優しさと誠意に溢れた、心温まる卒業式でした。勿論、来賓祝辞も、送辞も答辞も、「卒業の歌」もありませんでしたけれども、ただただ皆が大きな声で斉唱した『君が代』と『校歌』のうちに、6年間にわたる子供達の成長の記憶と先生方や保護者達の切なる願いが凝縮されているように思われました。体育館にこだまする、健やかで爽やかな歌声は、場内すべての人々の心に共鳴して大きな感動を生み、落涙を誘いました。そこでは、「おめでとう」「ありがとう」という心の声が美しく交互に響き合っていました。きっと子供達は、歴史の目撃者、未来の語り部として今回の体験を伝え続けていくことになるのでしょう。
 さて、確かに「卒業の歌」の斉唱はありませんでした。少なくとも私の世代からすると、「卒業の歌」と言えば、『仰げば尊し』と『蛍の光』でした。この2曲を続けて斉唱して、会場内の感動が最高潮になった時に閉式となるのです。卒業生の方が存外冷静で、保護者の方が号泣するという光景も、この2曲があってこそ生まれたのかもしれません。もっとも、最近の卒業式でこの2曲が歌われることはほとんどなく、今時の子好みの今時の歌が選曲される方が普通のようです。現代のアーティストが情感たっぷりに歌い上げる曲も、それはそれで新鮮で悪くはありません。「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉のとおり、卒業式のフィナーレを飾る曲に変遷があっても至極当然のことなのでしょう。ただ少し気になるのが、『仰げば尊し』と『蛍の光』が歌われなくなった理由なのです。人間関係をフラットに捉える風潮を反映した今様(いまよう)の名曲に心がなびいているからだけではないようなのです。
 最初に「歌詞が文語調で古臭いから」という理由です。これに対しては、文化としての言葉も含めて、古いもの、先人の築き上げてきたもの、また先人から受け継いできたものには重大な意味が宿っており、その価値と味わいにこそ気付いてほしいのだ、と答えるでしょう。ところが、そういう理由だけならまだしも、「歌詞が文語調」だから「難しくてよくわからない」という理由を聞くに至っては、ちょっとばかり首を傾げざるを得ません。ここでは『仰げば尊し』を例にして考えてみましょう。
 先ず『仰げば尊し』の歌詞です。3番まであります。「1.仰げば尊し 我が師の恩 教えの庭にも はや幾年(いくとせ) 思えばいと疾(と)し この年月 今こそ別れめ いざさらば。2.互いに睦(むつみ)し 日頃の恩 別るる後にも やよ忘るな 身を立て名を上げ やよ励めよ 今こそ別れめ いざさらば。3.朝夕馴(な)れにし 学びの窓 蛍の灯火(ともしび) 積む白雪 忘るる間ぞなき ゆく年月 今こそ別れめ いざさらば」。古語やら係り結びやらのオンパレードで、場合によってはとんでもない勘違いをされてしまうこともあるようです。例えば「いと疾し」を「愛おし」、「別れめ」を「分かれ目」、「やよ忘るな」を「嫌よはするな」等々。それでは私なりに意訳してみます。「1.仰ぎ見て尊敬していた先生からは本当にたくさんの御恩を受けました。先生から教えを受けていたこの学校で過ごしてもう何年も経ちました。つらつら思い起こしてみると本当に早く過ぎ去った年月でした。まさに今日でお別れです。それではさようなら。2.お互い本当に仲良く過ごした日々でした。心から感謝しています。卒業して別れてからも決して忘れないでおきましょう。ともに立身出世してがんばろうではありませんか。まさに今日でお別れです。それではさようなら。3.毎日通って慣れ親しんだ学校です。蛍の明滅する光や雪に反射して入る明かりに頼るぐらいまで一生懸命勉強しました。これまでの年月を忘れる間などあろうはずもありません。まさに今日でお別れです。それではさようなら」。学び舎における日々、先生や級友への思い、次のステップへと踏み出す不安と期待……。人生の門出を巧みに表現する最高の曲ではありませんか。それが歌詞の難しさのために避けられているという訳です。
 難しいというのならば、自ら進んで調べてみたり、勉強してみればよいではないですか。あるいは、わかる人に教えてもらう、言い換えれば、わかる人がわからない人に教えてあげればよいではないですか。それぞ教育でしょう。(ついでながら、賢い人に教えるのは比較的誰にでもできることで、そうでない人に教えることこそがプロの役割、即ち教育の本旨であると思います。……などとエラそうなことを言っていますが、基本的には教育者への敬意が大前提として求められるというのが私の常なる考えではあるのです。)難しいからと言って避けていては、進歩はあり得ず、退歩のみとなります。難しいからこそ挑戦してみなければならない、いやチャレンジする値打ちはますます高まると言えないでょうか。難しいからとわからないままにしておいて何とも思わないとしたら鈍感の極みです。本来、わからないことがあれば気になって仕方なく、あちらこちら八方手を尽くし、時間を忘れて徹底的に調べてみることが大切なのです。難しいのでわかりません、面倒です、もういいです、というのでは能力の向上は見込めませんし、心の充実や達成感なんぞ得られないでしょう。
 以前のこと、「永遠の不明」について触れたことがありましたが、そういう大袈裟な事柄でなく、ちょっとした手間暇や考え悩みの労を厭わなければ理解できる問題、解決できる事象があり、そうした理解や解決を得てから次なる難関に挑むことこそが、本当の意味で「進級」であり「進学」であると言えます。これら一連の営みは、人生の至る所で見受けられるとは言え、やはり第一には学校という場を挙げるべきでしょう。学びの場所おいて、優れた価値を持ったものを、(滅多にはないことでしょうが)ただ古臭くて難解だという理由だけで避けて取り上げないようなことをすれば、「知の進級」などできるでしょうか。易きに流れていては、知性も感受性も磨かれることはないでしょう。
 難しいからこそ向き合い、挑み、苦闘する。それによりひとつの山を越える。実はこの連続は宿命的に不可避なのです。自分の過去を振り返ってみると、そんな立派な児童・生徒・学生……ではなかったとは思いますが、今になってみれば、難しいからこそやってみようという姿勢の大切さを改めて痛感するところです。
 『仰げば尊し』。一見難しい表現を少しずつ紐解いていくと、そこには実に重要な示唆が見え隠れしていることがわかります。人として忘れてはならないことにハッと気付かされます。その時こそ暗闇に一条の光が差し込み、心がじんわりと温かくなって、涙が滲むことすらあるのです。言葉をしみじみ味わい、その深みや重みを体感し得た瞬間なのでしょう。
 難しいからこそ挑戦し、それを突破した時にのみ得られる価値についてもう一度考えてみなくてはなりません。卒業式も入学式も人生の節目の行事です。ひとつのステージを終えて次のステージへ、またより高く難しいステージへ。そこで踏み出す一歩は、難しい一歩であるからこそ真に貴重な意味を持つのです。
 桜花の季節はとっくに過ぎていて、今更ながらの話ではありましょうが、日本人の心持ちを鮮やかに反映しているかのように美しく照り輝いて咲く桜花の旬をはさんで挙行された2つの式典。どちらの式典も、満開の花々に心から祝福されているように見えました。子供達にとっては数多の困難が待ち受ける将来にあっても、その人生が花よりもなお華やかならんことを心から祈るのみです。
 世の中は混乱し、政治、経済、日常生活のいずれも大変不安定な時期に入っています。様々な事柄について不明なことが多く、何をなすべきか、何をなせるのかがわからないために、人々は大きな不安を抱く結果となっています。その不安が積み重なって、人々の心には刺々しく激しい不満が蓄積されてしまっているのです。何とも悲しい仕儀です。しかし、不満と不安を取り除くには不明を解消するしかありません。それは人類にとってとても難しい課題となるでしょう。ですが、難しいからこそ挑まねばならないのが人類なのです。時に進むべき方向を見誤ることはあるとしても、またとても愚かな一面があるとしても、その人類の叡智を信頼し、それに期待します。
 混乱期に注意すべきは風評です。風評に惑わされることなく、また風評を流すようなこともせず、可能な限り沈着冷静さを保って、責任ある言動を心掛けたいものです。
 当社も期末に向けて最終コーナーに入っています。皆シャカリキになって頑張ってくれていると思います。その頑張りが確実にひとつの成果に結びつくようにするために、先ずは目前の仕事を丁寧にこなし、油断することなく仕上げていかなければなりません。請負人の本分を全うするだけです。
 当期をひとつの道に例えるのならば、よく言われるように「千里の道も九百九十九里をもって半ばとす」です。とにもかくにもこの道を無事踏破できるよう、前へ歩を進めていきましょう。ご安全に。

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