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第55回「駄菓子屋」

 昔の話をしたところで「だからどうした」と返されてしまうことの多い世知辛い世の中にあっても、ふと思い出すことどもを筆に任せて書き連ねることが全くの無意味という訳ではないと信じて、浮かんでは沈み、沈んでは浮かぶ言の葉を拾い集めてみることにします。
 近所のあちこちに駄菓子屋がありました。今では数えるほどしか残っていないでしょうが、それこそ昔は町の至る所にありました。今で言う「駄菓子専門スーパー」などという大きくて立派なお店ではなく、民家の一部を改造して開いているような小さくて狭いお店がほとんどでした。何となく薄暗くて、湿気すら感じる店内には色とりどりの駄菓子だけでなく、おもちゃの当たるクジなどが雑然にして所狭しと置かれています。飴、チョコ、ガム、カステラ、麩菓子、せんべい等々、甘い駄菓子や辛い駄菓子のにおいと、店の建物と歴史そのものから醸し出される空気とが混然一体となって店内に漂っていました。これにさらに特徴を加えるのが、店主たる「おばちゃん」です。
 今から思えば恐らく副業で営んでいたのでしょう。子ども達が店の入口の戸を元気よく開けて「ごめんくださーい」と大声で挨拶すると、奥の方から何故か半分不機嫌な「おばちゃん」が登場します。言ってみれば「客人」であるはずの子ども達がガヤガヤと入り込んでくること自体が不愉快極まりないという表情です。何人かでやって来る子ども達にもそれぞれに事情があって、小遣い銭片手に何か買おうとしている子もいれば、特に何を買うつもりもなく一緒に付き添ってきているだけの子もいるのです。駄菓子屋の「おばちゃん」たる者、現金商売、しかも性格は現金でなくてはならぬとばかりに、相手によって露骨に態度を変えました。お金を持ってきている子には急に愛想をよくして揉み手し、付き添ってきただけの子にはぶっきら棒な物言いをして眼中から除外するという徹底ぶりです。子ども心にも嫌な思いをしたものです。しかし、この「おばちゃん」は、いずれ駄菓子を買ったり、くじを引いたりする時には避けて通れない関所に待ち構える「富樫左衛門」に他ならず、そこは子どもの無い知恵を絞って上手くお付き合いするしかありません。
 ある日のこと、近くの駄菓子屋に寄ってみると、携帯ラジオが当たるクジがありました。カーキ色の小さなラジオで、メード・イン・ベトナムでした。クジ札を見ると、あと残り3枚ほどでした。クジ1回10円なので、30円で1等のラジオが手に入るという寸法です。そこで奥からご登場の「おばちゃん」に30円を渡し、1枚ずつ慎重にクジを引きました。全部ハズレでした。当たりクジや何処に……。もうおわかりでしょうが、元々当たりクジなんぞ入っていなかったのです。そんな「大人の事情」を知らぬ私が、事態を飲み込めずに首を傾げて落胆していると、「おばちゃん」は言いました。「しょうがないねえ。このラジオ、持ってきな」と妙に恩着せがましく呟き、渋々ラジオを渡してくれたのでした。私としては、うれしい半面、「当たったのだから貰えて当然なのに」という割り切れなさも感じましたけれども、それも束の間、ラジオから雑音とともに不安定に聞こえてくる音楽やDJの声に関心の対象は移っていきました。そのラジオが故障してウンともスンとも言わなくなってしまったのは、それからすぐのことでした。目が点になりました。憧れの1等賞はただの小箱になりました。
 思えば駄菓子屋は子ども達の社交場でした。集会所であり、時に「秘密基地」でもありました。お菓子、クジ引き、おもちゃ等、どれも童心を惹きつけ、放課後に足を向けさせる魅力が沢山詰まっていました。子ども達の目からすれば、駄菓子屋の狭っ苦しい店構えすらも、まるで御殿のように見えていましたし、小遣いでもらった10円は、まるで10万円の価値があるように感じられたものです。そう見え、感じられるのが、まさしく「子どもらしさ」ということなのでしょう。何故ならば、子ども達にとって、その目で見、全身で体感した限りが全宇宙だったからです。ところが大人になっていくにつれ、背が伸び、ちょいとマセてくると、それまで見えなかった色々なものが見えてくるようになります。それなりに物分かりもよくなってきて、無理や矛盾を飲み込むのが平気になってしまいます。知恵も体力も付いてくるものの、得てしてそれは悪知恵と暴力という正体を現します。本来ならば何事もしっかりと考えられるだけの年齢を重ねていながら、何が面倒なのか、妙にあっさりと割り切ったもの言いをしてしまい、中途半端に納得してしまうようにもなりがちです。「人間なんてこの程度」とか「人生なんてこんなもの」などという非常に大雑把な言い方で片付けてしまうのもその一例でしょう。これぞ大人らしく成長した証なのか、それとも子どもの純真が曇っただけなのか……。
 こうして書いている文章ひとつにしてもそうです。不慣れな作文でも、子どもが心を込めて一生懸命、ありのまま素直に表現した文章には心打つものがあり、時として涙を誘われることすらあります。それと比べて大人の書く文章は、一見高尚な内容で、難解な言葉を駆使していても、虚飾が多くて胡散臭さが残ってしまい、しばしば話半分に受け取られてしまうこともあります。それは大人が駄菓子屋を先ず第一に子どもの社交場、「楽園」と捉えず、「たかが駄菓子屋」なんぞと偉そうに見下す視点を持つに至ってしまったことに起因していると言ってもよいでしょう。この視点は実に冷たい視点です。実に乾燥しきった視点です。実に嫌な視点です。
 子どもに対する大人の優位とは一体何なのでしょう。身長、体重、筋力、学力、収入等々あれやこれや挙げられますけれども、一番重要な点は、物事の核心に迫る能力を持つことではないでしょうか。勿論、子どもなりの目線で出される言動が、時に物事の核心を突いたり、偶然にも核心に接近するということもままあるにはあります。しかし、大人の場合は、自ら得てきた知識なり技量なりを動員して、積極的・能動的に物事の核心に迫るべく追求しようとするところに特徴があると考えます。自らの意志で不明の暗闇から脱し、先方に輝いて見える一点へ接近しようとする姿勢にこそ大人の「凄味」を見るものです。従って、核心の追求であれ、追究であれ、こうした企てから距離を置いたり、企てそのものを放棄してしまうとすれば、勿体ないを通り越してしまい、もはや何と感想を述べてよいのかすらわからなくなる事態に至ってしまうのです。
 駄菓子屋という小宇宙。無邪気にも夢中になった時間。お菓子にワクワクし、クジ引きにドキドキした体験。その時の「こころ」は、時の経過とともに変化を繰り返して変容します。いや、変容して然るべし、と言うべきかもしれません。しかしながら、その変容が、よき成長によるものなのか、悪しき退化によるものなのかは一先ず措くとして、変容の前と後とを比較してみた時に、幼く、拙く、それほど色に染まっていない純粋素朴な心の様を窺える頃のことを、なまじ分別臭くなった大人がせせら笑えるのでしょうか。せせら笑いはしなくても、今更戻ることのできない昔の話だとして一刀両断、早々に思考の対象から除外してしまえるのでしょうか。もっと考えてみれば、なくしてしまうには惜しい特質を、意識的にであれ無意識的にであれ喪失してしまってよいのでしょうか。これらの問いに他する答えは、その喪失と引き換えに、より広く、より奥深くまで物事を見つめ尽くそうとする強力な「こころ」や「こころざし」を得たかどうかという問題に依ると言えましょう。
 その年齢なりに駄菓子屋で心ときめかしていた子どもは、ただの昔話の世界に放擲される対象としてではなく、過去から未来へと一直線に延びる人生のベクトル上のある位置に存在しています。そこでは、大人になった自分が子どもの頃の自分を振り返るように、子どもの頃の自分が大人になった自分を遠く見つめていると考えるべきで、その子どもの目から見て大人の自分が取り分け光り輝いて見えるようになるかは、そうした「こころ」や「こころざし」を持てるようになっているかどうかに掛かっています。これ即ち、物事の核心に無関心を決め込むのではなく、時には使命感すら抱いて核心に到達してやろうという意気込みで徹底的に追求・追究するという「こころもち」になっている(性分になっている)ことが、子どもの頃の自分への回答になるということを意味しているのです。ここにして、子どもの「こころもち」と大人の「こころもち」とが、それぞれに大切な意味を持ち、なおかつ、深化の方向性のうちにあっても、しっかりとつながり合う状態こそ最良なのだと主張したいのです。言うまでもなく、私自身大いに反省しなければならないところではあります。
 禍福が糾える縄の如く出現する日常において、あらゆる事象に興味関心を抱き、常に考え、悩み、それでも諦めず、目前にかすかにきらめいて見える何ものかを追い求めようと努めることが、多少なりともできるようになってきているからこそ、大人はちょっぴり子どもとは違うというだけのことだと思います。では昔の自分に今の自分を堂々と胸張って誇れるでしょうか。返答は容易でないのですが、ただ同じベクトルの上を歩みつつづける途中で、何か大切なものを失っていないか、何か不可欠なものを得忘れていないか、前後左右上下を見回しつつ自問し続けるだけです。
 駄菓子屋のにおい、子ども達の笑い声、「総天然色」の世界、うたかたの思い出。その時の「こころ」と今現在の「こころ」を照らし合わせながら、新年早々、少しばかり時間軸の上であれやこれや思索に耽ってみました。
 令和3年。新しい年を迎えました。
 当社は今年で創業95周年を迎えます。これまでの諸先輩と、今を担う皆さんによる努力の積み重ねによって節目の年を迎えることができました。しかし、それはほんの一瞬の通過点にすぎません。第69期も後半戦に突入しています。これから半年が、来期、来々期を見据えて活動すべき大変重要な期間となります。会社としての目標、また皆さん各人の仕事上の目標をしっかりと見定め、易きに流れず、一手間を惜しまず、本当に安全かつ適切な方法を実践して、ミス・ロス・手戻りを極小化することが大切です。後で悔やむくらいならば、今この時にこそ対策を取るべきです。その上で、何が何でもその目標を達成してやろうという気概を持って職務に邁進してください。
 世の中は混迷の度合いを深めています。これからの半年間は、まさしく「疾風怒濤」の月日になろうと思われます。油断大敵です。「常によく考える」ことを忘れずに、しかしまた同時に、時機を見逃さず即応できるよう心掛けて、歩を前へと進めていきましょう。
 本年もよろしくお願いします。ご安全に。

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