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第77回「ピンとキリ」

 俳優の渡辺文雄は、東京大学経済学部卒の、いわゆる「インテリ俳優」のひとりでしたが、少しの嫌味もなく、親しみやすい人柄と味わい深い演技がとても印象的でした。いつのことだったか、彼が何かのテレビ番組でこんなことを話していました。「同窓会をやると学校の話しかしない奴がいる。それぞれが社会に出てもっと面白い経験を沢山しているはずなのに、実につまらないことだ」。天下の東大を出た人間ならではの不平・愚痴とも聞こえますけれども、妙にプライドに拘ったり、何かひとつのことをしつこく自慢して皆を興醒めさせてしまうような輩に出会ったということは、大概の人に覚えがある出来事かもしれません。
 そんな渡辺が昔、全国各地を訪れ、そこの名物料理を食べて紹介するというテレビ番組で長くレポーターを務めていました。高級料理から庶民的な料理まで、様々な食材を様々な技法で「郷土色豊かに」調理して提供される味。各地の風土が醸し出す美味しさ、その土地土地に住み、生活する人々の温かみ……それらが混然一体となって彼の舌を楽しませたに違いないでしょう。
 確か渡辺の著書で読んだと記憶するに、ある時彼は、「今まで食べてきたものの中で一番美味しかったものは何か」と問われ、大変困惑しました。食べ物の美味しい不味いに絶対的基準はないであろうし、食材、調理方法、食べた時と所、同席していた人、当日の自分の心身の状態などによって感じ方はいくらでも変化します。「どれが一番か」と言われても困る訳です。あれも最高だった、いやそれも素晴らしかった……だが、折角のお尋ねなので敢えて返すとすれば、と思い切って答えたのが「福井の港で食べた焼きガニ」でした。福井の漁港で水揚げされたばかりの活きた越前ガニをその場で焼いてもらって食した彼は、その味を「空前絶後の美味さ」と表現したのです。芳ばしく焼かれた殻の中に詰まった新鮮なカニ肉の甘味、濃縮された旨味。余程美味しかったのでしょう。勿論、彼の食歴からすれば、他にも別の意味で美味しかったと言える食べ物があり、その記憶が頭の中を去来していたこととは思います。
 「これまでに一番〇〇だったものを挙げよ」。この手の質問にはいつも悩まされます。例えば、「今までに読んだ本の中でよかったと思う作品を一冊教えよ」などと問われたところで、なかなか答え様がないのです。ジャンルによって、また人生の場面場面において、それぞれに最高の感動を覚え、感銘を受けた作品があるのであって、それを「一冊」などとは愚問中の愚問と言わざるを得ません。それに「よかった」とはどういう意味でしょうか。質問内容が曖昧では回答も曖昧になってしまうものです。まあ、人情としては、そう問いたくなる人の気持ちもわからないではありませんが、それにしても弱ったものです。
 このように、本当に「一番」「最高」と言えるものを明確に断言するということはとても難しいことなのです。一応「一番」や「最高」に分類されるものが複数あったり、ひとつに絞れそうでも明白な理由と確固たる自信をもって断定できなかったりすることもあるでしょう。加えて、普段はそうした分類やら選択、はたまた抽出などといった「作業」にはほとんど無関心であるのがごくフツーの人々であるとすれば、なおのこと「明確に断言」なんぞ容易ならず、大方のところ足踏みか放置かの二者択一を迫られてしまうものなのです。
 しかし、断言しなければならない場合もあります。現実に日々携わる「仕事」の世界ではその連続です。決定的な見方を示さなければ、大きな目標でも小さな目標でも無事に達成することはできないのです。ここで、「安全」に関わる一例を挙げてみます。我々「ものづくりの仕事」に携わる者だけでなく、あらゆる仕事に携わる人々にとって、「安全」が非常に大切であることは言うまでもありません。「安全第一」というスローガンは、あちこちの職場で唱えられています。そうした中、あるお客様企業では、「安全第一」ではなく「安全最優先」という表現を用いて災害防止活動に日夜取り組んでおられます。つまり、世に「第一」と呼ばれるものは数あれど、その中で最も優先される「第一」が「安全」だ、何故ならば「安全」なくして工程も品質も利益もなく、また会社の繁栄や個人の幸福など成り立ち得ないからである、という考え方に依るのです。至極もっともな話で、「安全」が欠ければ、他のすべての成果はその意味を著しく減衰されてしまうでしょう。
 こうして見てくると、英語を習い始めた頃のことをふと思い出しました。英語には“one of the most 〇〇”という表現があります。訳すと「最も〇〇なもののひとつ」となります。ただ、この表現には未熟者なりに少し違和感を覚えたものです。というのは、「最も〇〇なもの」というのは「最も」なのだから、それはひとつしかないのではないか、それなのにどうして複数あるかのような表現をするのか、と素朴な疑問が湧いてきたからです。この点については、甲乙つけ難い複数の見事な人物・事柄のグループがあり、どれが絶対に1等とは決められないが、少なくともそのグループに属しているくらい優れている(逆ならば劣っている)とは言えよう……そういう趣旨を含んだ表現として説明可能ではあります。英語学の専門家ではないので詳しくはわかりません。それでも「最も」に分類される対象はひとつと考えるとしっくりきますし、スポーツ競技のように順位付けされた方がわかりやすいものです。もっとも「同率1位」ということもありますが、やはり「ベストはひとつ」は固定観念なのでしょうか。しかしながら上述したように、実際の社会においては、どれだけ意見や見方が収斂されていったとしても、一応のところ「最高」とか「一番」とかに分類される(値打ちを付けられる)対象は人間の数ほど並立して矛盾なく存在し、どれが「本物」の「最高」「一番」かは簡単には判別できないというのが現実です。判別能力の問題なのか、はたまた複数並立こそが最終形態なのか、それにしてもどれくらいまで絞り込めるのか、先程の英語表現の世界観こそが正解なのか……。とても難しい問題で、これに向き合うには、「本物」に出会うための限りない経験と思考が要求されているような気がしてなりません。
 少し視点を変えてみましょう。『全著作 森繁久彌コレクション(2)芸談』(令和2年 藤原書店)に「釜足さん」という随筆が載せられています。まだ若手だった森繁が大先輩俳優・藤原釜足(ふじわらかまたり)に演技のコツを教えてもらおうとした時の話です。森繁は釜足さんに次のような言葉をかけられました。「おい、モリシゲ!ピンが分かるか、キリは腹にこたえてるだろう。ピンとキリを知ってれば、真ん中は誰でも出来るんだ!」。(「ピン」とは最上等・最上級のものを指し、「キリ」とは最下等・最下限のものを言います。どちらも外来語説があるためカタカナ表記されます。)この釜足さんの至言は森繁の脳裏に焼き付いて離れませんでした。森繁はこの話を現代社会にも当てはめます。「極端をきわめれば、中間など誰にでも想像がつく。……ただ、ピンとは富の絶頂を言うのでもない、もっと高い精神……計りしれぬ崇高なものを指してもいよう」。対してキリについては、戦中戦後の満州の混乱下で辛酸をなめた経験からこう解釈します。「人間の醜さ穢さ、餓鬼のように彷徨し一片のぬくもりも失ったドン底の獣たちの群れ」。続けて「ピンはどこにあるのか。衣食足り過ぎて、豪奢に暮らしても心底うごめくものはピンにあらずしてキリにも近かろう」と手厳しい。ボヤっと中間あたりで何となく生きる我々への警句でしょうか。
 ピンとキリだけわかっていれば、その中間は誰にでも想像がつく。それはそうかもしれません。しかし、ピンとキリを知るためには無数の中間に触れなければならないはずです。確かに、ピンやキリとの偶然的・衝撃的な出会いがあることを否定するものではありませんが、それは滅多にないことでしょうし、そもそも出会った時にピンかキリかを判別できるでしょうか。つまるところ、無駄なようでも数多の中間との接触が繰り返されるうちに、ようやく初めて判別可能になっていくのではないでしょうか。ピンにはピンの、キリにはキリの値打ちがあるでしょうし、中間には中間の「ほどほど」の値打ちがあるでしょう。無数の「ほどほど」の中からピンとキリを見抜き、見極め、それを語れるようになる……となれば、それはもう達人の域です。釜足さんのアドバイスは一見簡潔な言葉ではありますけれども、誰もが一足飛びに達成できる類の話ではありません。演技とは、かくも難しく、奥深いものなのでしょうか。裏を返せば、ピンともキリとも無縁の「あぶく」の中で呑気に惰眠を貪っていては、決して「見果てぬ夢」から覚めることはないのでしょう。
 「一番」「最高」「最上等」「最上級」、つまりピン。人間にとってピンとは何か。このテーマを巡って古来人間は議論を重ねてきましたし、中間やキリに振り回されながらも、未だに議論は終わりを見ません。どうやら人間は、容易に答えを見つけられそうにもない問題に真剣に向き合い、取り組んで悩み続けることを愛好するようで、それは極めて人間臭い「生態」、ある種の「性(さが)」なのかもしれません。(あるいは「特権」か。)
 あるイギリスの学者は、人間にとって最も基本的な価値は自明だが、それを見極める能力や意欲などに個人差があったり、価値との距離感も多様であったりするので、言うほど易くは価値を把握できない、と主張しています。この学者は基本的な価値を見極める際の様々な区別法を提示した上で、こうした価値は複数あり、どれもが等しく「基本的」であるため他の価値には通約されず、また他の価値を実現するための手段とされることもない、と説明し、それに続けて、これらの価値は各人各様の見方によって優先順位付けされ、しかも誰による優先順位付けも一応はそれぞれに正しいと論じているのです。なかなか興味深い話です。
 ピンとキリがあるとわかってはいても、そこに辿り着くまでの道のりは長い。しかし、長かろうとも、中間の嵐に揉まれるうちに、何らかの形で出会える瞬間が訪れると思います。ピンとキリを知り得た時にこそ、自由と個性を最大限に発揮でき、自らの行為に光輝と香気を添えられるようになるのではないでしょうか。そんな日が来ると想像することは空想でしょうか、妄想でしょうか。いや、彼方に確実に存在するゴールであると信じて、有限の時間を生きるほうが私には余程魅力的に感じられてなりません。それが率直な感想です。
 さて、今年もあと1ヵ月を残すのみとなりました。時の流れは速く、人々の悲喜浮沈など全く意に介せず、超然として一方向へと進んでいきます。とは言え、川の流れにたゆたううちにも、ピンなるものを能動的に探し求め続けなければなりません。
 「ものづくりの仕事」において、またその「仕事」に携わる一個人として、最も優先されるべきことは何か、一番優れて素晴らしい出来映えとは何かを意識して問わなければ、客先だけでなく自分自身が満足できるような仕上がりを期待することは不可能になるでしょう。問い、悩み続けましょう。それのみが練達への一本道に違いないのですから。
 締めに一言。「健康」と「安全」は、それぞれ最も重要な意味を持つ事柄のひとつです。ご安全に。

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