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第87回「築山の黄昏」

 徳川家康には、生涯で2人の正室(本妻)がいました。1人は築山御前(築山殿。瀬名姫)で、もう1人は、築山殿の死より7年後に家康に嫁いだ駿河御前(朝日姫)です。築山殿は、関口親永を父、今川義元の実妹を母として生まれ、当時駿府の今川方人質であった松平元康(のちの家康)と結婚、長男・信康と長女・亀姫を産みました。築山殿も時に駿河御前と呼ばれていたのですが、朝日姫の方の駿河御前は豊臣秀吉の実妹になります。秀吉対家康の小牧・長久手合戦では勝敗が付かず、何としても家康を上洛させたい秀吉が既婚者の妹を離縁させ(夫の佐治日向守は自害)、家康と政略結婚させたのでした。朝日姫は悲嘆に暮れるうちに病に罹り、京の聚楽第にて47歳で亡くなりました。家康には側室(妾)は多くいましたが、正室はこの2人だけだったのです。
 最初の正室が「築山殿」と呼ばれたのは、彼女が岡崎城近くの「築山」(現在の岡崎市久右エ門町あたりとも康生通南近辺ともされる一帯)に邸宅を構えて住んでいたからで、何故城内に住んでいなかったかについてはよくわかりません。織田信長の奇襲により伯父・今川義元は桶狭間で討ち死にし、夫・家康は信長と同盟を組み(そのため両親は義元の子・氏真によって死に追いやられ)、今川家そのものが滅ぼされていく中にあって、今川一族の姫君として家康の正室となった築山殿の心境も境遇も極めて厳しく耐えがたいものになっていたことでしょう。それ故に、家康と築山殿の夫婦仲も難しいものになったに違いないと後世の人が想像したとしても、ある意味仕方のないことなのかもしれません。しかも、自分の血を分けた長男・信康は、今川氏を滅亡させた信長の長女・徳姫(五徳)と結婚することになったのです。我が子の幸福を祈るのは親の自然とは言え、とてもアンビバレントな思いで事態を見つめ、また一族の幸福と繁栄を願いつつも、深い孤独感と寂寥感のうちに日々を過ごしていたに違いありません。家康は拠点を浜松に移し、築山殿は信康・徳姫夫妻や亀姫とともに岡崎に残ります。この後、岡崎では、甲斐の武田勝頼と通じた大賀弥四郎達が謀反を企てるなどの混乱が生じたのに続き、遂に「築山事件」と呼ばれる悲劇が起きてしまうのです。
 「築山事件」とはどういう事件なのか。巷間伝わるところを要約するとこうなります。「築山殿は嫉妬深い稀代の悪女である。織田を憎み、織田の長女を嫌い、家康を恨み、家康の側室を虐待し、甲斐の唐人医師・滅敬と密通するうちに勝頼に内通して謀反を画策した。また信康は、信長の指図にも拘らず亀姫が奥平家に嫁ぐことに異を唱え、気性も荒く、妻を遠ざけ、妻の侍女を刺し殺し、踊り子を射殺し、法師の首に縄をかけて馬に結び、馬を走らせて引き殺したばかりか、母に勧められて勝頼家人の娘を妾とするなどした挙げ句、母と共謀して謀反を企んだ」。では、その謀反の内容はと言うと、山路愛山『徳川家康』によれば、勝頼に内通し、甲斐武田の国兵を岡崎に迎え、徳川家と織田家をまとめて滅ぼした上で、築山殿自身は甲斐へ行って、勝頼家臣のうち一定の位の者の妻となって後半生を楽しく暮らし、信康は武田家にて厚遇してもらう、というものでした。滅敬からその話を聞いた勝頼は喜び、家臣の小山田兵衛が丁度最近妻を亡くしたところだからその後妻にしよう、と答えたといいます。この謀略は、しかし露見し、徳姫から父・信長宛に12箇条の訴状(築山殿・信康の悪行を書き連ねた報告書)が送られ、信長が内容確認のために呼んだ家康重臣・酒井忠次は弁明することなく内容を認めてしまったため、築山殿と信康には死が宣告されることになったのでした。信長が命じたのか、その意を忖度して家康が指示したのかは不明ですし、12箇条の訴状も実物が残っている訳ではありません。ともかくも結末としては、築山殿は、遠江・佐鳴湖畔の小藪村で野中三五郎重政により殺害され(自害説あり)、信康は、同じく遠江の二俣城にて(無実を訴えつつ)自害しました。山路愛山曰く、「恩愛を棄て人情を断ち、家国の安全を計」るのが当時の常態であり、信長なかりせば存立し得なかった家康にとっては、断腸の運命なれど、致し方ないことであった、と。……以上が巷間説かれる「築山事件」となります。築山殿の亡骸は現在の浜松市にある西来院に、信康の亡骸は同じく浜松の清瀧寺に葬られました。但し、2人の首は、安土城の信長の元に送られて首実検を経たのち岡崎に還り、その地に葬られたのでした。2人の首を信長に見せて納得してもらわなければならない政治的立ち位置に家康があったことだけは容易に想像できるところです。
 築山殿の首は、石川数正が安土より岡崎に持ち帰り、真宗高田派の祐傳寺に首塚をもうけて埋葬、弔いました。祐傳寺の門を入ったすぐ左側に「築山御前首塚」はあります。まことに小さな古い五輪塔がひっそりと建っています。参拝者が供えた真っ白い菊の花が寂し気に咲いていました。五輪塔の背後にある小さな石碑は、築山殿に殉じて自害した2人の侍女の供養塔と伝えられています。南無阿弥陀仏。心のうちで静かに六字名号を唱えます。この祐傳寺の首塚の隣には築山殿をお祀りする築山神明宮が勧進されましたが、江戸時代に現在の岡崎市欠町にある八柱神社に移転合祀され、首塚もその際に移されたといいます。
 岡崎市内の少し小高いところに建つ八柱神社には多くの神々が鎮座します。石段を上り、社殿にて参拝。境内西側へ下りていくと、そこに移転された築山御前首塚が見えてきます。鬱蒼とした木々の間に立派な五輪塔が建ち、それには築山殿の戒名が刻印されています。しかし、首塚そのものは、五輪塔の前に安置されている自然石なのです。少し苔生した不思議な形の石で、その前にはやはり別の供養塔が2つあります。恐らく殉死した侍女達のものでしょう。そこはかとない悲しみが漂い、きれいに咲く供花がまた憐れを増します。黙祷。
 松平信康の首は、現在の若宮八幡宮のある地に埋葬されました。首塚の霊威著しく、信康の御霊を御祭神として名栗天神社に合祀したとされます。当初は世を憚って菅生八幡宮を社名としていましたが、徳川の治世となってからは晴れて若宮八幡宮と改名されました。「岡崎三郎」が通称だった「若」=嫡男・信康。その首塚は、社殿北側の区画された場所にあります。中には入れず、柵越しに臨むのみです。柵の下には花束が供えられていました。彼方に見える五輪塔の左下に安置される自然石こそが信康の首塚です。岡崎三郎信康とは、実際どんな青年だったのでしょうか。只々無念だったことでしょう。黙祷を捧げるのみです。
 ところで、この「築山事件」は何から何まで謎だらけです。事件当時の記録は残っておらず、ただ江戸時代になって書かれた諸文献に頼るのみなのです。言うまでもなく、江戸時代に語られる歴史は原則「家康中心史観」に依拠しています。つまり、東照神君・家康公は絶対的に正しく、間違いを犯しているのは周囲の者である、という考え方です。山路愛山にしても、信康には多少同情的な評価を下しているものの、大体は巷間説かれるところを踏襲しており、特に築山殿に対しては相当に手厳しい言葉を並べています。江戸時代成立の資料しかないという事情も分かりますし、それら資料の中にも沢山の事実が含まれているのかもしれません。ただ、どうも「築山事件」についてだけは簡単に納得できないのです。
 家康と築山殿、家康と信康、築山殿と信康、それぞれの本当の関係はどうだったのか。また各人物の性格や行状、人々が離合集散する模様はどうだったのか。「家康中心史観」や小説・映画・テレビ番組などに影響された「もっともらしい」諸説が溢れかえる中で、正解たる言説を探し出すことは困難を極めるものでしょう。そうした困難な状況下にあって、我々は歴史とどう向き合うべきなのでしょうか。
 いかに戦国の世の習いとて、自らの妻子を死に追いやって全く悔やまず、ほんの一片の痛痒すら感じないなどということがあるのでしょうか。夫婦関係や親子関係にも嫉妬と怨念と打算が渦巻き、狂気と独善が横行するような情況の真っ只中、破局と大団円との間で運命の振り子が揺れ動くようなことがあるにせよ、そこにほんの微弱ながらも「一抹の情」や「心の紐帯」のようなものが光を明滅させ、微かな音を響かせていると考えることはできないのでしょうか。その心の「光と音」が存在し、かつそれを感応できるということこそが、人の人たる所以であると思います。天下人・家康も人なり。
 史実はわかりません。史実とは歴史上の「事実」ということです。辞書によれば、「事実」とは「実際に起こったこと」をいいます。似たような言葉で「真実」は「嘘偽りのない本当のこと」、「真理」は「時空を超越して普遍的に妥当する道理・認識」と説明されています。しかしながら、それぞれの言葉が定義する対象は、それほどはっきりと分別できるのでしょうか。定義とは本来的にはっきりとは割り切れぬ複雑さや曖昧さを伴なうものではありますが、一口に「事実」と言ってもその見え方は多様であり、事実究明に要する時間も能力も関心も、その時々人々において限界があります。故に一応「事実」とされることも、まあまあのところで手を打って「事実」とされる「事実もどき」かもしれません。「真実」にしても「真理」にしても同じことです。「事実」「真実」「真理」は、実のところ明確に区別できない部分があり、その辺縁の境界線には不明瞭なところもあるものです。「事実」によっては「真実」に左右され、「真実」によっては「事実」に左右され、その混沌としたさまの背後には「真理」が見え隠れする……。判断材料に乏しくて史実はわからないとしても、また戦国時代であろうと現代であろうと、さらに人生観の変遷や技術文明の発展が急速に進むとしても、時と所を問わず、人々の間に変わらず通底する「心持ち」があると信じます。それに思いを致して人々の行動を考察してみることは無謀でも無理でも無意味でもありません。私は頑迷な歴史学者ではありませんので、「その心持ちは奈辺にありや」と問うのみです。歴史は人間ドラマであり、歴史を知ることは人間を知ることに他ならず、人間を知るためには歴史を顧みなければならないと考えます。
 築山の地で瀬名姫や信康は何を考え、何を感じていたのでしょうか。西の空から地の果てへと沈みゆく夕陽に自らの人生を重ね合わせ、そのさらに彼方にある世界「浄土」を見つめていたのでしょうか。そんな2人を家康は冷徹に見放していた……はずはありますまい。彼は生涯の「悔恨」に苛まれ、無限の苦悩と苦痛を背負っていくことになったのです。その上で「厭離穢土欣求浄土」の旗印のとおり、この世に「浄土」を現出させ、その歩みと結果を「西方浄土」にて先に待つ2人に伝えたに違いないと考えたとしたら、それは過ぎたる空想とされてしまうのでしょうか。
 第72期は第2コーナーへと向かいます。季節の変わり目は心身の疲れが出やすいものです。体調管理に十分配慮して各自の仕事に全力を注いでください。同時に、どのような仕事に携わるにしても、そこでは必ず「事実」を確認し、「真実」を追求しなければならず、その先にあって初めて「真理」に適い得るのだということを忘れずに覚えておきましょう。誰であれ、誠心誠意仕事に向き合うのならば、これと同じ思いに至るはずです。
 なおかつ、それらすべてに先立つ言葉は……ご安全に。

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