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第89回「ミニマム・ポッシブル」

 映画『男はつらいよ』シリーズ(監督・脚本 山田洋次)のテーマ曲(作詞・星野哲郎、作曲・山本直純、歌・渥美清)の2番にこういう歌詞があります。「ドブに落ちても根のある奴は いつかははちすの花と咲く」。ここで言う「はちす」とは蓮(はす)のことで、花弁、雄しべ・雌しべ、がく等が付く茎の先端部分「花托(かたく)」の形状が蜂の巣のそれに似ているため、蓮=蜂巣という言い方が今に伝わっているようです。蓮の花は夏に咲くので、季節外れの話題となってしまいますが、蓮に仮託してこれから記す内容は、季節を問わず当てはまることであろうと推し量り、以下少しばかり「雑談」を進めていきたいと思います。
 時季になると透明感いっぱいの色鮮やかな花を開かせる蓮。東京は上野にある不忍池の水面に隙間なく繁殖する葉の間から茎を伸ばして花が咲くさまを見るにつけ、可憐さと力強さを併せ持った「美の実体」に触れたような不思議な感動を覚えたことがあります。全国各地にも「蓮の名所」と呼ばれるところはあり、この近くでは岡崎の伊賀八幡宮が有名です。
 蓮の仲間には「睡蓮」があります。クロード・モネの油彩画で有名な、あの睡蓮です。植物学的に分類すれば、蓮はハス科ハス属、睡蓮はスイレン科スイレン属で、それぞれは別の科の植物になります。睡蓮は、蓮のように水面より高く伸びる茎葉はなく、葉には切れ込みがあり、またその花は水面に浮かんでいるように見えます。蓮と睡蓮各々の特徴については、専門的にはさらに詳細な説明が可能なのでしょうが、言うまでもなく私は門外漢ですので、あとはご興味のある方銘々にてお調べいただきたく存じます……。
 ともかくも、蓮は、地中にある地下茎(いわゆる「蓮根」)から真っ直ぐに茎を伸ばし、撥水性のある円形葉を出して、ピンク色と白色のグラデーションが鮮やかな花弁を開くということなのです。涼やかに咲く蓮花(「蓮華」とも書きます。)を見ていると、妙に心が安らぎ、静かに落ち着いた気分になるのは、蓮そのものがインド原産であり、故に仏教と密接な関係を持つからなのかもしれません。実際、仏画や仏具には蓮がモチーフとして用いられており、仏教の世界観や教義を表現するに不可欠なものとして扱われています。蓮は、何かを凝縮したような、あるいは何かの素のかたちを現しているような、もしかしたら何かが化身しているような不思議な光輝を放っているようです。
 三重県津市にある真宗高田派本山・専修寺(せんじゅじ)は、蓮花が咲き誇る寺院として有名ですが、その専修寺の寺宝を収蔵・展示する新しい宝物館「燈炬殿(とうこでん)」が開館したということで、先日訪れて見学してきました。燈炬殿は、VR(仮想現実)シアターと寺宝展示室とから成っており、シアターでは「OJODO」というプログラムが上映されていました。まさしく極楽浄土の世界をVRで映像化した作品で、360度スクリーン全面は優美な蓮花に囲まれ、天空には紫雲に乗った阿弥陀如来や菩薩達が光り輝きながら登場し、天女達は舞い、楼閣は浮遊しています。天女達はまた楽器を奏で、実に心地よい音色がシアター内に溢れるのです。阿弥陀如来のことを「無量寿如来」とか「無量光如来」とも言いますが、永遠のうちに光に満ち溢れる世界「お浄土」の表現としては、なかなかに秀逸であると感じました。映像を鑑賞していると、解説員(僧侶の方)が穏やかな口調で語り始めます。「蓮は、泥の中から真っ直ぐに天に向かって伸びた茎の先に、全く土に汚れていない美しい花を咲かせます。これは、我々が煩悩、苦痛、欲望にまみれた汚泥のような現世から転生して蓮の花弁の内に生まれ変わり、極楽に姿を現す様子を想起させるものです」。なるほど、この世は汚濁した泥土のような憂き世であるも、そこから生まれ出づる新世界には一点の汚れも曇りもない、と。
 かつて11世紀中国の儒学者・周敦頤(しゅう とんい)は「愛蓮説」の中で、世に菊や牡丹を愛する人はいるが、私ひとりは蓮を愛する、と主張しました。何故ならば、「蓮は泥の中から生長しても泥に染まらず、茎の中には通気孔が通っていて外側は真っ直ぐになっており、蔓も枝もなく、香りが遠くまで漂って一層清らかで、上へ向かってすっと立ち、遠くから眺めるものにして、近寄って手に取り弄ぶべきものではない」ほどに素晴らしい植物だからであり、また彼はそう述べた上で「菊は俗世間から隔絶した花(隠逸)、牡丹は俗世間の只中にある花(富貴)、蓮は高潔にして有徳のうちにある花(君子)」という見方を示したのでした。蓮の特徴をよく捉えている説明です。
 泥土まみれになって必死にもがきつつ現世を生きる人々。泥とは欲であり、争いであり、苦悩であり、悲哀であり、罪業なのでしょう。そこにどっぷりと浸かって抜け出せなかった人々が、泥土の縛りから解放され、汚れなき清浄なる蓮台に生まれ変わる……その蓮台に身を托すことが「一蓮托生」という言葉につながります。解説員のお話に納得したり、感心したりすることは多々ありました。ただ、私などは少々(相当?)ひねくれているので、泥土に埋もれた根、つまり蓮根があってこその開花ではないかとも思うのです。普段は人目に付かず、只々生長のための力を蓄えている蓮根。天ぷらや「からし蓮根」としても庶民に愛される蓮根。蓮根は、言わば縁の下の力持ち、表舞台を支える裏方、生長力の源泉に他なりません。私は、蓮根の働きや役割にこそ、美しいもの、麗しいもの、高潔なるものを感じます。派手さとは無縁の純粋なる美しさでしょう。その意味で、蓮の君子たる理由は、根と花、茎や葉、それを取り巻く土・水・大気・陽光すべてから成る総体より導き出されるものであるに違いありません。
 ともあれ、汚濁の世に対する美徳を集約する蓮。他ならぬ集約されたところのものこそ、物事のエッセンスや真髄を象徴しているのでしょう。こうしたエッセンス、つまり物事を構成するに不可欠な要素、これだけは無くてはならないもの、即ち、それ以外のものではエッセンスたりえないものについて、徹底的に考え続けてきた人は歴史上数多くいましたし、今もいます。エッセンスを探求し、同時にまたエッセンスを探求するために必要なものや妥当な仕方とは何かを問い続ける人々です。思考上の目標に到達しようとし、不要・不用なもの一切を削ぎ落して捨象し、途上の遮蔽物、夾雑物、フィルターの類いを除去し切ることによって初めて純粋なる核心、つまり究極に遭遇することが可能であると考える人々……そのひとりとして、ここで清澤満之(きよざわ まんし)という人物を紹介することにします。
 清澤(旧姓 徳永)満之は幕末の名古屋生まれで、明治期に活躍した真宗大谷派の僧侶・宗教哲学者です。彼は僧籍に入った後、東京帝国大学と同大学院で哲学を学び、常に首席の成績を収めて卒業、教育改革や教団改革に取り組むことになります。また、碧南の西方寺の娘・清澤やす子と結婚して婿養子となります。そののち彼は様々な挫折に直面し、自身は肺結核に侵され、しかも妻子に先立たれるという不幸に見舞われることになるも、西方寺で39歳にて病没するまで旺盛に研究活動・著述活動を続け、暁烏敏(あけがらす はや)などの弟子達とも積極的に交流しました。満之は、物質文明や科学万能主義への盲信を批判して「精神主義」を掲げ、自己と他者が同体であるところでしか倫理・道徳は実践できず、また実践なき倫理・道徳では仕方ないとした上で、その実践を可能ならしめるためには「宗教」が絶対的に必要になると考えました。この考え方には、宗旨宗派を超えて共感できる部分があるのではないでしょうか。
 その満之に「ミニマム・ポッシブル(minimum possible)」という言葉があります。訳すならば「可能な限りの最小限」となりましょうか。彼はある挫折に遭遇した後、古代ギリシャ哲学ストア派を彷彿させる極端な禁欲・節制生活に入り、健康を害してしまうことになります。粗衣粗食、禁酒禁茶で厳しく自らを戒め、本当に必要最低限のものだけで生活するのです。彼は最期の病床にあっても「塩断ち」をしたというくらいですが、極限まで捨象し尽くして、一体何をしたかったのでしょうか。考えるに、徹底した削ぎ落しと捨象によって「可能な限りの最小限」だけで生きようとする試みは、哲学や宗教上、いや人生上の諸問題における核心に迫るために、それを妨げる一切のものを容赦なく排除して、その先に何を感知できるのかを実体験しようとする試みと表裏一体、ベクトルを同じくする行為であったのではないでしょうか。他に通約されず、また置換され得ぬところのもの、つまり極限、究極、または粋(すい)である何ものかは、信仰の核心、人間の核心、宇宙の核心なのかもしれず、それを探し求め、それに挑み、到達しようとする者を求道者と言うのならば、満之は間違いなく求道者です。求道者を「ぐどうしゃ」と読めば、仏教上の正しい道や極致を求めて修業する者を、「きゅうどうしゃ」と読めば、真理を追究する者を指しますが、双方の意味は重なり合い、従ってどちらの読みにおいても満之は求道者と言えるのです。
 物質的豊かさを求め、自己の財産・地位・名誉の変動に執心し、過多な情報に振り回され、技術文明に隷属するばかりで熟思黙想とは縁遠い時代、カッコつきの「多様性」の名の下に思考停止してしまう「一様性」に染まる時代、欲望の追求に際限なく、利己主義が跋扈する時代、混沌・混乱・錯綜の時代……豊かさの衣を被った貧しい時代。しかし、どのような時代にあっても、極限に生きて極限に迫ろうとする営為、また本当の意味での物事の核心、絶対的に大切で不可欠な事柄を追究しようという姿勢を軽侮と嘲笑の対象にしてはならないでしょう。自己にとっての「ミニマム・ポッシブル」とは何なのか、他者や社会にとっての「ミニマム・ポッシブル」とは何なのかを考える責務が我々にはあるのです。
 究極を求めて命果てた求道者・満之の凄まじい生きざまには、蓮根の内蔵するエネルギーと蓮花の高潔なる美しさのどちらも見ることができるような気がしてなりません。いやあるいは、蓮そのものが「ミニマム・ポッシブル」の表象であると言い切っても、あながち間違いとは言えますまい。
 さて、今年もあと1ヵ月。ということは、今期第72期も半分が終わろうとしています。日々の生活、日々の仕事のうちには、あまりにも多くの出来事があり、その分苦悩も増していくものです。その苦悩を受け止めながら諸事奮闘している間に、月日は流れていってしまうのです。光陰矢の如し。
 ただ、時の流れにたゆたいつつも、自分にとっての、または自分の仕事にとっての「ミニマム・ポッシブル」は何かを考えることは無意味でも無駄でもありません。むしろ、今本当に大切で不可欠なことは何かと思い巡らすことは、自分の行動の方向性や座標軸を見失わないためにも必要なことなのです。「ミニマム・ポッシブル」、少しだけ考えてみましょう。
 冬は寒さと乾燥に要注意です。さらに流行する病にも引き続き対策が必要となります。自身の健康管理も不可欠な事柄に相違なし。健康を維持し、その上で年内無災害を目指して、1日ずつ「ものづくりの仕事」に取り組んでいきましょう。ご安全に。

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