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第99回「収蔵庫に入る」

 今回は、西尾の岩瀬文庫と松阪の本居宣長記念館の話をしたいと思います。
 岩瀬文庫は、元々地元の肥料商で莫大な財を成した岩瀬弥助が、自ら蒐集した古典籍を保存・公開することによって地域社会に貢献すべく明治期に設立した私立図書館でした。現在は西尾市に移管され、モダンで規模の大きい新館も建設されており、西尾市民だけでなく、全国から利用者が訪れています。新館の隣には、大正期に建築された赤煉瓦造の旧書庫が建っています。蔵書はすべて新館へ移されていますが、旧書庫建物そのものは毎年特別な時期にのみ公開されているようです。また、この岩瀬文庫の大きな特徴のひとつとしては、年齢18歳以上で、所定の注意事項を守ることができる人ならば、いつでも、誰でも、無料で古典籍の実物を手に取って閲覧できるという点が挙げられます。
 私が先日閲覧したのは、清少納言の『枕草子』(岩瀬文庫本では『枕草紙』)でした。清少納言の自筆本は現存が確認されていませんので、これは勿論写本なのですが、この写本系統は鎌倉期にまで遡る最も古いものとされ、書写の精確さなどからも高い評価を受けており、現に岩波文庫版では底本とされています。こちらの写本は、江戸期の公家・柳原紀光によるもので、柳原家の秘本でした。3巻本です。閲覧室を訪れて閲覧申請をし、手荷物をロッカーに預け、手を洗い、しっかりと拭き、腕時計を外して着席、しばらく待ちます。「先客」の閲覧が終わると、箱に入った『枕草紙』が目の前に運ばれてきます。学芸員の方曰く、「書物のカドはへたってきていますので、真ん中あたりをめくって読んでください」。そこで素手にて慎重に頁をめくり始めます。書写されている文字は、当初は細く、小さく、繊細でしたが、中巻、下巻へと進んでいくうちに、太く、大きくなっていきます。写本途中の心境や周辺環境の変化があったのでしょう。あれだけの分量を書写していれば、当然書体にも変化が現れてこようというもの。清少納言の思い、その思いを受け継いで彼女の言葉を書き写してきた人々の意気に思いを巡らせながら、「春はあけぼの」から跋文(後書)までゆっくりと読ませていただきました。このような体験ができたのも、岩瀬弥助の情熱、書物への愛情、それを今に受け継ぐ西尾市民の努力のおかげだと強く感じつつ帰路に就いたのでした。
 蔵書数8万冊超。この膨大な数の書物が保管される収蔵庫の中を見ることはできませんでしたが、古典籍そのものに手を触れて閲覧できたことは幸せでした。ところで、別の日の別の場所でのこと、古典籍に直接手を触れることはできないものの、通常は非公開の収蔵庫の中に入って、数多くの文献資料を紹介していただけるという貴重な機会に恵まれたことがありました。本居宣長記念館での体験です。
 江戸期の国学者・本居宣長に関する資料等、重要文化財多数を含む1万6千点を収蔵する本居宣長記念館は、昭和45年に松坂城跡の一画に開館しました。隣接地には、かつて市内の魚町にあった宣長さんの旧宅・鈴屋が防災上の理由から移築されています。その記念館にある収蔵庫に入ることができたのには、次のような訳がありました。
 宣長さんの生涯をわかりやすく丁寧に描写した『鈴せんせい 歴史漫画・本居宣長のすべて』という漫画作品が、平成元年に松阪青年会議所により出版されました。漫画とはいえ、しっかりとした考証がなされており、宣長さんの入門書としてはかなり上質、最適の1冊と言えるのですが、長く在庫切れ状況にあり、しかも漫画の原稿(ネガフィルム)の劣化が進んだため、増刷と原稿データのデジタル保存が計画されました。クラウドファンディングによって集められた資金は目標額を大きく上回りました。私もささやかながら出資させてもらい、その返礼(リターン)として記念館収蔵庫見学の機会が与えられたのです。
 見学当日は、お忙しい中、学芸員のNさんにご案内いただきました。手荷物を事務室に預け、2階展示室の奥にある収蔵庫へ向かいます。扉を開けると狭いスペースの前室があり、そこでスリッパに履き替えることになります。次に、銀行などで見られるような頑丈な金属扉があり、それを開けるといよいよ庫内です。正面には白い紙が敷かれた大きな閲覧台が置かれ、さらにその奥には白い布に覆われた大きな桐箪笥が見られます。けんどん式扉のこの箪笥は燃えにくい材質となっており、その中には「重要文化財」が収納されているとのことでした。また、収蔵庫の前室と庫内とでは電気管理系統が分かれておらず、金属扉が閉まると同時にすべての照明はオフとなり、庫内が真っ暗になってしまうので、金属扉を開けたままにしておかなければならないとの話で、漏電対策上必要なことであったとはいえ、資料保存のためにはあまり外気に触れない方がよいのでしょうから、関係者としても大変悩ましいところなのでしょう。さらに、庫内には機械的に温湿度を調整する機器はなく、普通のルームエアコンが設置されているだけらしいのですが、丁度収蔵庫の真下は記念館1階のピロティー部分となっているため、階下の通気性はよいようです。耐震補強とリニューアル工事が施されているとはいえ、歴史ある記念館ならではの悩みも多いように思われました。
 それで庫内。所狭しと置かれた書棚はしっかりとした木軸で製作されており、そこには宣長さんの著作・原稿、軸、絵、書簡、短冊、道具の類いがぎっしりと詰められて収納・管理されていましたし、本居家の人々や宣長さんの門人等関係者達のそれ、また他にも、松阪ゆかりの品々を集めた小津茂右衛門のコレクションなど多数が棚に収められていました。記念館が完成するまでは、宣長さんの資料類は東京の本居家や魚町に残る土蔵の中などに保管されていたといいます。それを市へ寄贈しようとしたのが、松阪本居家(宣長さんの長男・春庭の家系。これとは別に宣長さんの養子・大平の家系である和歌山本居家がある)5代目当主・本居清造でした。自らも研究者として学統を継いだ清造は、膨大な枚数に及ぶ宣長さん自筆の付箋を該当著書の該当箇所に自分で糊付けして貼ったといい、今でもどこの注意書きかわからない付箋が沢山残っているとのことです。清造は自他ともに大変厳しい人だったようで、孫達も後年そのように回想しています。しかし、宣長さんの遺産や学統をつなぎ、後代へ残していくということは大変なことですし、相当の使命感と宣長さんへの敬意がなければできなかったことでしょう。自他への厳しさは、その裏返しだったように思われてなりません。宣長さん自身も物持ちのよい人で、徹底的に記録を残し、保管し尽くしたのでした。物を大切にし、道具を大切にし、文字を大切にし、言葉を大切にし、そこに宿る心持ちを大切にし、その心持ちのさきわう日本と日本の人々を大切にしたのです。日本本来の文化や伝統を正しく知り、伝えようとしたのです。それ故に、宣長さん自身、己を厳しく律しました。当然、彼に続く人々は、それを正しく受け継ぎ、伝え授けるべく、懸命になって考え、苦悩し、行動したに違いありません。それは極めて困難、かつ神経を極限まで擦り減らすほどの営為だったことでしょう。記念館で保管・展示されることを条件に、清造は子の彌生を通じて資料を寄贈しましたが、清造自身は記念館の完成を待たずして亡くなりました。
 収蔵品のうち、印刷用の板木については、その質と量にとにかく圧倒されます。重量もかなりのものでしょう。板木とは、文字などが書かれた原稿を裏返して貼り付け、文字以外の地を彫り上げて製作される印刷用の木版のことをいいます。こちらの板木の材質はヤマザクラで、若干の摩耗が見られるものの、今でも印刷にたえられるとの話です。(もっとも今や「文化財」なのでそれは叶わぬことです。)名古屋の書肆・永楽屋(片野家)より寄託された『古事記伝』板木をよく見ると、浮き出た文字面以外の地が真っ平に彫られています。文字とは直接関係のないところまできれいに処理されているのは、見えないところでも手を抜かないという職人気質、プライドによるものでしょうか。彼らの情熱、また宣長さんへの敬意とともに板木を守り伝えてきた人々の情熱にも頭が下がるのみです。
 ぐるりと庫内を案内されて最後に立ったのが、上述の桐箪笥の前でした。Nさんからリストを示され「どれをご覧になりますか」と問われたので、「『紫文要領』の原稿をお願いします」と答えました。けんどん式扉を開け、桐の引き出しから立派な箱が取り出されました。何重もの白い紙に覆われた中にある『紫文要領』稿本。頁がめくられると、「紫文要領」という題名は墨で線を引かれて消され、「源氏物語玉の小琴」と改題されていました。それ以外にも無数の修正が加えられていましたが、それがいつなされたのかは不明です。この『玉の小琴』は、のち『源氏物語玉の小櫛』として改めて執筆され、『源氏物語』の優れた注釈書として完成されました。ここに至るまでの執筆プロセスは、宣長さんの人生の歩みに連動しています。年齢を重ね、研究を深めていくうちに、新しい視座や見解が生まれていったのでしょう。続いて学問入門書『うひ山ふみ』草稿も拝見。総じて宣長さんの草稿は字が小さくて細かい。また紙を選ばず、裏紙を使うこともあります。草稿だからそれでよい、とにかく溢れ出るアイデアを一気に書き記してしまおう、ということなのでしょうか。清書が済んだ分については、草稿の該当箇所が線で抹消されています。これは私の原稿の書き方と同じで妙に納得できました。最後に宣長さんが19歳の時に描いた空想都市図『端原氏城下絵図』を拝見しましたが、それを大切に保管していた宣長さんの好奇心と想像力、それに彼を囲む家族の温かい眼差しなどに思いを致しつつ、収蔵庫を出たのでした。気付くと30分の見学予定時間だったのが1時間40分も経っていました。Nさんには心より御礼申し上げます。
 先達の遺産や先達が築き上げた信用・信頼または技芸を継受し、それを守り、後世へと伝えていくことには、当事者にしかわからぬ労苦があるでしょう。しかも先達への敬意はいささかも揺らぐことがあってはなりません。さらに、そもそも守り伝えることの難しさは、先ずその対象が何であるかを可能な限り知り尽くそうとしてみなければならない点にあります。そこには少なからず「工夫」も必要となるでしょう。「前例どおり」という姿勢では前例を守りきれません。過去を現在に再現し、未来へとつなぐことは惰性では不可能です。自分の仕方で思考し、責任をもって実践していく……。その時々において自らのオリジナリティーを能動的に発揮してこそ、継受と伝承の難行苦行は、ようやくにして可能に「なりかける」のではないか……。記念館をあとにして、帰途そんな思索に耽ったのでした。
 さて、第73期は3カ月経過し、間もなく第2四半期に入ります。
 「ものづくりの仕事」に携わる我々にも、受け継ぐべきもの、守るべきもの、改善し進歩させるべきもの、自らの色彩を加えるべきものがあります。勿論、そのそれぞれの意味内容について、何より自分自身が理解するということから始めなくてはなりません。その理解なくして動くことは無謀であり、つまるところ風任せ、運任せの蛮勇に終わるのみです。「理解する」こと、「知る」ことを端折らず、それを踏まえて実行に移す……この基本姿勢を忘れず、さらにプライドを持って仕事に向き合い、取り組んでいきましょう。
 言うまでもなく、最優先すべきは自らの心身について知ることなり。ご安全に。

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