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第100回「言葉を紡ぎ続ける」

 回を重ねてどれくらいになりますか、こうして毎月あれこれと書いてくると、その都度困るのがテーマ(題材)の選定です。頭の中の引き出しが空っぽである上に、加齢(生来か?)起因の弱々しい記憶力のせいで、同じテーマを繰り返し取り上げてしまうことも時々あります。自分の日常生活や考えごとの軌跡をたどり、周囲のあちこちをぐるりと見回して、そのどこかにスポットライトを当ててみる。その光が集中するところを導入口として話を展開し、その内容を掘り下げて考察する……すると「この道はいつか来た道」と気付くこともままあるのです。もっとも、同じ道を通ったとて、景色にも感じ方にも何らかの変化はあろうというもの。「その変化を見逃さずに取り上げているに違いない」と温かい目で解釈していただければ、これほどありがたいことはありません。
 「本当は『です・ます調』より『である調』の方が書きやすいのに」などと愚痴りながらもテーマを決めて書き始めると、次に問題になるのが文量、つまり文章の分量です。例えばタイトル(題名)などについては、書き始める前、書いている途中、書き終わった後、それぞれのタイミングで最適と思われるものを付けますし、存外変更しやすいものなので、「名は体を表す」以上タイトル付けの重要性は重々認識しているものの、結構楽しみながらできる作業だと言えます。それに比べて本当に悩ましいのが文量の問題なのです。書くと言っても、無制限に思いつくまま書ける訳でなく、紙幅に制約はあるのです。勿論、文章は長ければよいというものではなく、ましてや「冗長」ではいけません。論旨明瞭、簡潔表現こそ最良です。ならば「今書いている文章もそのようにすればよいではないか」ということになりますが、しかし、短くすれば細かな説明や描写がしにくくなります。すると「本論や核心に直接関係ない部分は大胆にカットしたらどうか」と言われそうです。ただ、バッサリやるには忍びなく、それにそんなことをすれば読者へ伝えられる事柄の量が減ってしまいます。大意だけ伝わればよいとまでは割り切れぬ優柔不断さに加え、本音ではむしろ紙幅制限を解除してもらい、一層微に入り細を穿った文章を書きたいという方向違いの願望が筆致に混迷をもたらすのです。それ故に、敢えて妥協するならば、読者には話の内容がわかりやすくなるように一定量の情報は提供しながら、それでも理解しにくいところについては、読者自身に行間を読んでいただき、想像により「穴埋め」していただくしかないことになる訳で、それが可能になるギリギリの文量がまさしく現状のそれなのであると弁明する次第です。
 続いて、原稿執筆の手順です。一発勝負でいきなりパソコン入力して提出原稿を書き終えるなどということはありません。以前に横着してそれを試みたところ、全く筆(キー打ち)が進まず、すぐにエンストしてしまう車のように止まってしまいました。アイデアも言葉も湧き出てこないのです。そのため、やはり遠回りのように思えても、先ずは思いつくままのことを短距離走の選手の如く一気に「手書き」で書いていきます。漢字のミスも、話の前後関係も、少し論旨があいまいな点も、構わず、怯むことなく、躊躇うこともなく書き切るのです。この仕方だと不思議にもエンストが起きにくくなります。A4方眼用紙何枚分ぐらい書くと1回分の文量になるという目安はわかっていますので、とにかくそれを目途として下書きを終えます。この下書き原稿を今度はパソコン入力して清書していき、清書入力が済んだ下書き原稿の該当箇所を鉛筆で線を引いて消します。これと同時併行して推敲も進めるのです。その過程で新しい考え方や表現などが思い浮かび、徐々に文章全体が整えられていきます。こうしてすべての入力を終えると、大体所定文量を少しだけオーバーしてしまっていますので、もう一度全体を読み直してみて、要約できそうな部分などを探します。ところが困ったことに、述べ足りなかった点などが出てきて、それを加筆したら逆に文量が増えてしまったなどということも往々にしてあるのです。それでも、文頭から文末までを何度か読み返し、手を入れていくうちに、なんとか所定文量に収まるようになります。情けないことに、これだけ何度も通して読んでいながら、誤字脱字の完全撲滅はできないというのですから、己の集中力不足に反省すること頻りなのです。
 今、所定文量と言いました。それに収めるためによく使う悪い手が「改行減らし」です。本来改行は話の展開に変化が生じる時に適宜行われるものですけれども、改行すればその行が一段下がることになり、結果としてその分所定文量を「余計に」消費してしまい、紙幅制限を守りにくくしてしまうのです。勿論、改行箇所が多すぎても文章全体の落ち着きやまとまりを欠くことにつながりかねません。しかし、効果的に改行をしたくとも、泣く泣く「改行減らし」「行数稼ぎ」をするとなれば、これほど悲しい妥協の産物はないでしょう。時々妙に長たらしい段落が登場しますが、恐らくその産物でしょう。今後、何らかの形で加筆訂正できる機会があれば、一度すべて読み直し、心置きなく改行してみたいと思います。まあ、最初から上手く文章をまとめておけば済む話なのですが、それはそれ私の力量不足に起因するのですから何とも致し方ありません。どうやら私自身の作文能力も相当へたってきているようです。頭の回転が鈍り、集中力は持続せず、いくつもの言葉が記憶バンクから消えてしまっている(なおかつ入力されるデータは多くない)……。好奇心と想像力だけは強く持ち続けようと自らを鼓舞するも、果たしてそれもうまくいっていることか。
 止まらぬ反省の中でも、私が最も反省していることは、「作文(文章作成)の師」の教えを今現在忠実に守り切れていないことなのです。以前「綴り方覚え書き」と題した拙文でも触れたように、私には作文の作法を教えてくれた恩師が2人おり、ひとりは学生時代に論文執筆や外国語翻訳などをするにあたりマンツーマンで徹底教授してくれた先生、もうひとりは社会人となってからビジネス文書のマナーや技法を厳しく指導してくれた上司です。いずれにおいても、単にテクニックの話だけでなく、言葉そのものが持つ深遠かつ宏大無辺な意味内容や多様性が強い「こだわり」をもって語られたのでした。これは私にとって貴重な体験であり、何ものにも代えられない財産となっています。私は、このお二方の「直弟子」を自認する者ですし、プライドを持ってそう自称しています。ところが恥ずかしながら、最近私が書く文章は、その恩師の教えから相当逸脱してきているようなのです。馬齢を重ねるうちに成長変化してきているというよりも、どうやら堕落変容していっているようで、それならば文章的には「静止」していた方がよかったのかなどと嘆息してしまいます。何であれ、恩師に合わせる顔もないというのが実情であるのならば、「不肖の弟子」とされても仕方ないところでしょう。只々平身低頭するのみです。
 最近書いた文章を読み直してみても、例えば平気で「が」を多用しています。この助詞は2つの文章をつなぐにはとても便利である一方、それが順接なのか、逆接なのか、ただのリズム取りなのかがわかりにくく、文意が曖昧になりがちなのです。この「が」を多用しない方がよいと指導されていたのに、易きに流れて使ってしまうという横着さ。もしかしたら、作文の難しさから逃避しているのかもしれません。作文とは本当に難しいもので、その過程には苦悩が付いて回ります。それをほどほどのところで迂回し、適当に手を打ってしまっているのでしょう。これから書く文章中にその「が」が度々使用される時には、「こいつ楽してるな?」と捉えられても言い返す術はありません。
 恩師の文章は言うに及ばず、世に名文とされる文章は数多ありますし、私なんぞも本を読んでいると感心するようなフレーズ、言い回しに出会うことがあります。映画監督の山田洋次はそういう言葉に出会うと必ずノートに書き記して仕事に活かしたと言います。やはり言葉に触れ続け、その中で拙くも我流に陥ることがあったとしても、言葉を組み立てる試みを絶やさないようにしていくことの大切さを改めて痛感せざるを得ません。言葉に触れる方法は、「読む」でも「聞く」でもよく、ただし読み流し、聞き流しに終わらせないようにすることが肝要なのでしょう。少しでも考えて言葉を味わい、記憶バンクに入力すること、その上で先人の名文や指導を参考にしながら、あれこれ試行錯誤を繰り返しつつ言葉のパズルを組み立て、一定の形へ完成させてみること……これをひたすらに継続していくということです。
 前回も登場した本居宣長が著した学問入門書『うひ山ふみ』については、かつて言及したことがありました。ここでもう一度宣長さんの言葉を紹介します。(適宜漢字に置き換えるなどして読みやすくしました。)「……詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まず怠らずして、励み努むるぞ肝要にて、学び様は、如何様にてもよかるべく、さのみ関わるまじきこと也。いかほど学び方よくても怠りて努めざれば、功はなし。……されば才の乏しきや、学ぶ事の晩きや、暇のなきやによりて、思いくづおれて、止ることなかれ。とてもかくても、努めだにすれば、出来るものと心得べし」。成程その通りだと思います。学問でも作文でも同じことです。もっとも宣長さんは本当は学問入門書なんぞ書きたくなかったのです。何故ならば、学問の方法は人の数ほどあるし、どれがその人にとって最適かなどはよくわからないし、そんなことは自分で考えることだからです。「ただ其の人の心まかせにしてよき也」とすら言っています。つまり任意だと。しかし、「倦まず怠らず」努力し続けることが何より大切なことなのだと強調しているのです。作文にしても、一定のルールはあるが、その表現力向上には近道も特効薬もなく、自分自身でその方法を考え、とにかく言葉に触れ、こだわり続けよ、と励まされているようです。まさしく「継続こそ力の源泉なり」ということでしょう。
 師の旧恩に心より感謝しつつ、今日も、これからもまた、時と所と形は変われども、言葉の大海で何とか浮き身して、表現し続けていきたいと思います。
 さて、間もなく当期は第2四半期に入ります。
 第1四半期を振り返り、反省して改善すべき事柄、また引き続き進展させるべき事柄、各人それぞれにあることでしょう。速やかに改善するにせよ、力強く進展させるにせよ、物事をそのまま放置しないという姿勢が不可欠となります。
 どんな仕事にも山あり谷あり、我々は波乱万丈の真っ只中に置かれることを避けられません。順風満帆であるに越したことはありませんけれども、それだけで済むことを望むのは「無いものねだり」に等しいでしょう。山ほどの難題に直面し、なかなか解決の糸口が見つからないとしても、少なくともスケジュール感はしっかりと持って、ただ「倦まず怠らず」努め続けることによってしか先は開けないと心得るしかありません。
 「継続は力の源泉なり」。この意識を大切にして、全役職員の総合力で第2四半期も仕事に取り組んでいきましょう。
 移り行く季節の変わり目にあればこそ、先ずはご自愛専一にて。ご安全に。

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