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第104回「くじ引き」
相国寺(しょうこくじ)は、臨済宗相国寺派大本山の寺院で、所謂「京都五山」の第二位に列せられる巨刹です。山内には数多くの塔頭(たっちゅう)を擁し、山外にも鹿苑寺(「金閣寺」)や慈照寺(「銀閣寺」)などの有名な塔頭があります。この相国寺を建立したのが室町幕府第3代将軍・足利義満(あしかが よしみつ)でした。当時義満は左大臣に任じられており、左大臣は中国(唐)名で「相国」と呼ばれるため、寺名が相国寺になったとされます。開山は作庭でも有名な夢窓疎石。境内の伽藍配置などを見ても、義満の並々ならぬ意気込みを感じます。
少し前のこと、その相国寺境内にある承天閣美術館開館40周年記念企画として「相国寺展」が当地美術館にて開催されました。国宝・重要文化財など数々の寺宝が展示されましたが、恐らくのところ、多くの来場者のお目当ては、雪舟や探幽、あるいはまた若冲や応挙などの有名どころの作品だったのでしょう。しかしながら私のお目当ては、それらとは全く別の絵だったのです。その絵とは、重要文化財の「足利義満像」(鹿苑寺所蔵)に他なりません。よく教科書などにも使用される肖像画で、出家後の法衣姿の義満が描かれています。飛鳥井雅親の作と言われますがよくわかりません。図録の表現を借りれば「僧綱領(そうごうえり)の法衣は黄褐色に丸文散らしの意匠をもち、金襴の横被をまとう。右手に数珠、左手に檜扇」を持つ、となります。今回の展覧会には、もうひとつ別の「足利義満像」(相国寺所蔵)も展示されていました。椅子に座った法衣姿の義満が描かれているのですが、こちらの「義満像」は少しリアルな描写ではあるものの、苦悩や戸惑いが感じられる表情をしており、片や鹿苑寺の「義満像」は、穏やかな相貌の奥に限りない権力欲と権謀術数で充満した「恐ろしさ」や「冷徹さ」が漂っているようですらあります。義満の生涯から想像すると、圧倒的に鹿苑寺の「義満像」の方が「義満的」であると言えましょう。
テレビ朝日のアニメ番組『一休さん』では、エキセントリックで滑稽な「将軍さま」として描かれていた義満ですが、歴代足利将軍の中では最強の権力を誇った人物であり、日本史を通してみても武家支配者として相当特異な存在でした。征夷大将軍と太政大臣の両方に任官され、京都と鎌倉に五山制度を設け、京・室町に「花の御所」を設営し、南北朝統一を果たすとともに、勘合貿易(日明貿易)によって巨万の富を得、京・北山に巨大山荘(北山第・金閣)を造営、最期には「太上天皇(上皇)」の尊号を欲したとされます。絶大な権勢を誇った義満でしたが、勘合貿易そのものが朝貢貿易(明の皇帝が義満を臣下として「日本国王」に冊封[さくほう]することによって始められた交易)であったことや、天皇の臣下たる分を弁えず一切の権力を足利家に集中させて皇位簒奪を企てたともされたことから、強い批判も浴びました。現に幕末には尊王攘夷派や南朝正統論者によって、足利家菩提寺・等持院の足利将軍木像の首と位牌が盗まれる事件が発生したぐらいです。
ここまで義満のことを書いてきて何ですが、実は私自身は彼の嫡子にして第4代将軍の足利義持(あしかが よしもち)の方に強い関心があるのです。4代目というのはあまり目立たないもので、例えば鎌倉幕府の第4代将軍は摂家将軍で藤原(九条)頼経、江戸幕府の第4代将軍は徳川家綱なのですが、私の勉強不足のせいか、いずれも3代目までに比べるとそれほど詳しく語れるだけの知識を持ち合わせてはいません。そんな中にあっても、室町幕府の第4代将軍・義持は、なかなかに興味深い人物に思えてならないのです。その義持については、伊藤喜良著『足利義持』(平成20年 吉川弘文館)に詳述されていますが、簡単にお話しするとこうなります。
義持は、9歳の時に父・義満から将軍職を引き継ぎました。勿論、政治の実権は義満が握っていたのです。そんな義満と義持は不仲だったと言われています。それは、義持の生母・藤原慶子が死去した際、忌中にも拘らず義満が酒宴を催して弔意を示さなかったことに起因するとされます。思春期の強烈な思い出が義持の人格形成に大きな影響を及ぼしたのでしょう。また義満は、義持とは母親の異なる弟・義嗣(よしつぐ)を溺愛しており、場合によっては義持を押しのけて足利家の跡継ぎにしようとしていたという見方すらありました。後小松天皇を北山第へ招いて大饗宴が催された際なども、義満は義嗣を近くに座らせ、義持を市中警備に当たらせていたという話もあるぐらいで、義持の不満や反発心は相当のものであったと想像するに難くありません。その証拠に、義満死去にあたり、朝廷から義満に「太上天皇」の尊号が贈られようとしたことがありましたが、義持はそれを断りましたし、北山第は解体、さらには明との冊封関係を否定しただけでなく、何より義嗣を死に追いやったのでした。他方で、朝廷を尊重して深い理解を示すとともに、学芸を愛好する知識教養人として当時の宗教・芸能文化に多大な影響をもたらしました。成育環境や時代状況が左右したとは言え、義持の生き方、考え方は、義満のそれのアンチテーゼであったに違いないでしょう。
その義持の生涯を通して、最も私の関心を引く事柄は何かと言えば、それは彼の「後継将軍の決め方」なのです。義持は、38歳の時に将軍職を嫡子・義量(よしかず)に譲り、自らは出家して大御所となり、実権を保持し続けました。ところが義量は17歳で病死してしまい、しばらく将軍職は空位となったのです。義持が元気なうちならばそれでも何とかなったのですが、いよいよ義持も尻にできた傷が原因で重体となり、いよいよ第6代将軍をどうするかが大問題になったのです。義持には他に男子はなく、ただ弟達4人がいるのみでした。しかし義持にしてみれば、弟達は将軍の器ではないし、仮に義持自身がその弟達の中から後継指名しても諸大名が支持しなければどのみち政治はうまくいかないと思われたのです。それ故に義持は、自分は指名しない、お前ら管領(幕府執事)以下の宿老(重臣)で決めればよい、との姿勢を崩しませんでした。そこで宿老達は、4人の弟達の名前が書かれた「くじ」を引いて決めることとし、それを義持は了承しました。但し義持は条件を付け、自分の存命中は「くじ引き」で決めてはならないとしたのです。(彼はかつて、義量の死後、再び男子を授かるというくじを引いており、自らの生存中に別のくじを引くことは神慮に反すると考えたのでした。)宿老達は、義持没後に「くじ引き」作業をしているあいだ後継者不在になるのはよくないとして、予め石清水八幡宮の神前でくじを引いておき、義持死去直後に開封することとしました。その翌日に義持は臨終を迎え、くじを開封した結果、青蓮院の義円(ぎえん)が選ばれました。この義円こそが第6代将軍・義教(よしのり)です。現実社会を「達観」し、後継将軍を「くじ引き」で選べとまで指示してこの世を去った義持。何というレアリストか、いやニヒリストか!一見すると無責任の極みのように思われても、決してそうではありません。彼の決断は熟慮の末の最適解であったと考えるべきです。
「くじ引き」に依ることは、普通「運任せ」と捉えられます。面倒な現実の困難から逃避するために横着して何も考えず、短絡的に「くじ引き」に依拠したとすれば、確かに無責任の誹りは免れません。勿論、どうでもよいような些末的なことを決めるのに「くじ引き」やら「ジャンケン」やらに頼っても大して問題にはなりませんが、人生の重大事、それも他者へ一定の影響が及ぶような事柄において安直にも「くじ引き」へ走ったとしたら、それこそ無責任そのものとされるでしょう。それでは何故義持を単なる無責任と考えるべきではないのかと言えば、義持は、義満ほどのカリスマ性はなく、地味好きな調整型であったとしても、「義持なりに」内外の諸情勢を冷静かつ客観的に分析し、自身のやるべきこと、やれることをやり尽くした上で敢えて「くじ引き」を認めたからなのです。
「人事を尽くして天命を待つ」という故事成語があります。12世紀中国南宋の儒学者・胡寅が著した『読史管見』に記されている言葉です。「人事」とは人間として為し得る(為すべき)事柄のことを、「天命」とは人間にはどうにもならない天の定めのことをいいます。この「天命」と、生まれながらに定まっている「宿命」や、自身による選択の末に遭遇せざるを得ない「運命」とはそれぞれ意味が異なっているようで、実はまた深いところで同義となっているようにも思われます。ここでは仮にそれらをまとめて「運命」と言うことにしましょう。それで故事成語。人間には、自覚せずとも、またどれだけ自身で努力しても如何ともしがたい運命というものがある訳で、だからこそ、その運命がいかなるものであろうと後悔しないために、ひとりの人間として為すべきを為し、為せることを為し尽くし、あとは天に任せて事の成り行きを静かに見守るだけだ……。場合によっては、運命を少しでも良き方向へと転じさせるために人事を尽くそうともがいているのかもしれません。
こうしてみると、「くじ引き」の是非に関わらず、またどんな生き方をするのかに関わらず、そもそも人生には結果として「くじ引き的なるもの」が付いて回るということになります。ですから、「人事を尽くす」のを大前提とし、「天命を待つ」のを不可避とするならば、故事成語の教訓は「人事を尽くす」という点にこそ重きがあることになるでしょう。「人事を尽くさないで天命を待つ」ような者はバクチ打ちと同じであり、その生き様こそまさしく無責任、無意味、無価値と批判されるのがオチです。無論、「くじ引きを意識的に忌避する」という選択をすることは可能です。ただ、そう選択したとしても、人生の至るところには「くじ引き的なるもの」が潜んでおり、いずれはそれに直面せざるを得ません。人知を超えたところのことは、人知を超えたところの存在にお任せするしかないのです。只々人間は乏しい能力を可能な限り駆使して考動し、運命と対峙する瞬間が訪れるのを待つのみなのです。
義持であれ誰であれ、例外なく天命・宿命・運命のトリニティーと鉄鎖で繋がれているのだと想像すると、この「あり方」の大枠の中で懸命にならざるを得ない人間の悲哀を感じながらも、その懸命さの中でしか「自由」や「個性」は開花しないという逆説的な現実が見えてきたような気がしました。どうやら人は、そんなに楽には生きさせてもらえないようです。
第73期も後半戦に入っていますが、いついかなる時においても、また誰にとっても「人事を尽くして天命を待つ」という姿勢はとても大切であろうと思います。しかしながら、我々の日常の仕事においては、当然「人事を尽くす」ことに専心すべきでしょう。では何をすれば仕事上「人事を尽くす」ことになるのか。その答えは、職場に掲げてある「経営理念・経営方針・行動指針」の中に見つかるはずです。何より基本を知り、基本を踏まえて、着実に仕事をこなすことです。その上で4つの管理、即ち工程・品質・原価・安全の各管理を徹底するに如かずです。手元・足元・上下左右を確認し、最初の一歩を確実に踏み出すのです。目標までの近道はなし、横着厳禁です。
正々堂々、自信をもって仕事を仕上げていけば、天も微笑んでくださるに違いありません。そう心に信じて、今日も前へと歩を進めていきましょう。ご安全に。