IWABEメッセージ
第32回「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス!」
「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス
(Supercalifragilisticexpialidocious)」という言葉に意味はありません。また意味を持たせてもいけません。ただただ長い意味不明語です。意味は不明ですが、使われ方には意味のある、とても不思議な言葉なのです。何と言い表してよいかはわからないけれども、喜びや悲しみといった感情の極みに至った時の心情を素直に表現する単語、またそれを口にした途端、話す本人も聞く相手も不思議な共感の世界へと誘われ、幸福感に包みこまれてしまうという魔法の一言と言ってもよいでしょう。
この言葉は、P.L.トラヴァースの児童文学を原作として映像化されたディズニー製作のミュージカル映画『メリー・ポピンズ』(1964年公開)の中で登場します。映画化にあたってトラヴァースとウォルト・ディズニーとの間であった綱引きと感動の秘密については、映画『ウォルト・ディズニーの約束』(2013年公開)で描かれています。さらに近年ではブロードウェイでミュージカル上演され、日本でも平原綾香などがメリー・ポピンズ役を演じて好評を博しましたし、先日は映画続編『メリー・ポピンズ リターンズ』が公開されました。(これも秀作です。但し、1964年版、つまり前作で長編映画初出演にしてアカデミー主演女優賞を受賞したジュリー・アンドリュース「は」登場していません。彼女が不朽の名作『サウンド・オブ・ミュージック』でオスカーを獲得していなかったことに驚きを禁じ得ないところです。)
今回は前作のお話を。20世紀初頭のロンドン桜通り17番地に住むジョージ・バンクスは銀行の重役で、女性参政権運動家の夫人ウィニフレッドとの間に2人の子供、姉ジェーンと弟マイケルがいます。この子供達はやんちゃで横着、これまでに何人ものナニー(育児係)が辞めてしまっていました。厳格で小難しい父親、明るいが世間ズレした母親も困っていたところに、子供達の書いた募集広告を受け取ったメリー・ポピンズが雲の上から傘をさして舞い降りて来るのです。メリー・ポピンズは、友人にして大道芸人、時に煙突掃除夫、時に凧売りのバートと共に、数々の魔法を駆使して子供達に不思議な体験をさせながら何事かに気付かせ、優しい目で2人の成長していく姿を見守っていく、というのがストーリーです。
名曲揃いのミュージカル映画ですが、最も感動的な曲が流れるシーンはどこかと問われれば、ジュリー・アンドリュース演じるメリー・ポピンズがこの上ない美声で情感いっぱいに「2ペンスを鳩に」を歌う場面と答えるでしょう。実はこの映画で最も伝えたい主題が展開されている名場面に他ならないと考えています。
ある日メリー・ポピンズはバンクスに、明日子供達を自分の勤める銀行へ連れて行ってはどうかと勧めます。その夜、彼女は就寝前の子供達に「お父様は、目の前にある、小さいけれど大切なことに気付いていない」と語りかけるのでした。
翌日のこと。銀行の近くに建つ大聖堂の階段に腰掛けて鳩のエサを1袋2ペンスで売る貧しい老婆。自らもエサを撒くと無数の鳩が老婆に寄って来て一緒に戯れ始めます。老婆は着るものもみすぼらしく、孤独で、世間の冷たさに悲しみを覚えるうちに間もなく終わりを迎えるであろう人生を振り返りつつも、それでも優しく微笑んで鳩にエサを与えて語り掛けるのです。この作品を最後に死去した女優ジェーン・ダーウェルの慈愛に満ちた笑み。世知辛い現実世界にほんの一瞬垣間見ることができた温かな「人間性」という美しく輝く一滴の「しずく」を感覚できた時、深い感動に目が潤みます。
バンクスにはしかし、そうしたことは全く無価値に思えたのでしょう。訳の分からぬ同情や憐憫よりも目先のモノ・カネにしか意味を持たせないのです。事実、お小遣いの2ペンスを老婆に渡そうとするマイケルを馬鹿にし、「投資に回した方がマシだ」と子供達を強引に銀行の中に連れて行こうとします。その時、メリー・ポピンズの言葉を思い出した子供達はバンクスに「あのおばあさんが見える?」と問うと、彼は「勿論見えるさ」と答えたのですが、彼が見ていたのは表面的な映像であって、老婆の優しく美しい心、人間の真心ではなかったのです。
銀行では会長や重役連中がバンクスと共に「2ペンスを銀行に預けなさい」と子供達に強要して取り上げてしまうのですが、子供達が「返して!」と叫んだために、それを聞いた他の来店客らが「この銀行は金を預けても返してくれないのか!」と勘違いして取り付け騒ぎに発展してしまいます。結果、その原因を作ったのはバンクスの子供達だということで彼はクビにされてしまうことになります。その宣告を受けるためにバンクスは夜中に銀行へ呼ばれますが、丁度家にいた煙突掃除夫バートからしんみりと話しかけられます。「あなたは偉い人で世間から尊敬もされるけれど、忙しすぎて子供達の笑顔に気付いてやれない。子供達はいずれ大きくなって巣立っていってしまう。それまでのうちに与えなさい(愛情を)」。バンクスが深く考え込んでいると、子供達が心から謝って2ペンスを差し出してきました。それを穏やかに受け取った彼は、ひとり深夜に銀行へと出かけていき、道中ふと立ち止まって、誰もいない大聖堂の階段に目を向けます。そこで確実に目が覚めたのでしょう。「わかっていなかった、本当に大切なことを!老婆の気持ち、老婆を思う気持ちを抱く子供達の清らかな心、もっと言えば子供達そのものの本当の価値を!わかった振りをしていただけだった」。こう気付いたに違いないと思います。
銀行では会長以下重役連中に屈辱的な扱いを受けてクビになるバンクス。会長から「何か言うことはないか」と詰問された時、子供達がメリー・ポピンズから聞いたという言葉を思い出し、「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス!」と答えて大笑いし、自らの過ちを反省して、吹っ切れたように家路に就くのでした。バンクスは地下室に眠っていた凧を直し、家族皆で仲良くそれを揚げに出かけます。街の人々も全員が凧揚げに興じるなか大合唱して大団円。役目を終えたメリー・ポピンズは静かに雲の上へと帰っていきました。そんな彼女を見上げて、バートは「さようなら。またお出でよ」と別れの言葉を送るのでした。
私も含めて、世の人々のほとんどは、本当に大切なことにはなかなか気付けないでいるのでしょう。じっと頭で考えさえすれば簡単にわかることでもありません。複雑で難解なことかもしれないし、至極単純なことかもしれません。白と黒、光と影、愛と憎、善と悪、正と邪……全く真逆に捉えてしまっている一方に隠れているのかもしれません。また、在って気付かず、無くなって気付くことかもしれません。有限の人生の中で、見せかけや虚栄から全く離れたところにある、美しく、優れて光り輝く珠玉を見つけることができれば、例えそれが小さな一粒であったとしても、柔らかな微笑みを湛えながら静かに生涯を閉じることができるような思いがしてなりません。真の幸福は、恐らくのところ多面的で色々な顔を持ち合わせているのでしょう。そのほんの小さな一面に自分の目の焦点を合わせることができた時こそ、心は打ち震え、感動と満足を得られる瞬間であるに違いありません。
スプーン1杯の砂糖があれば、色鮮やかで素敵な出会いが生まれる。たった2ペンスのお金でも、人生や運命を逆転するような大変な気付きを与えてくれる。
改めて、本当に大切なこととは何なのでしょう。これは、永遠という時間の流れの中で問い続け、答えに辿り着けなくても、少しは近づいたであろうかと心配になりながら、過去・現在・未来にわたって悩み続けることです。人類が何千年かけて問い続けても今だによくわからず、もっともらしい考え方が登場したところで決定打にはならず、そんなこんなを繰り返しているうちに人生は終焉を迎え、世代は移り変わり、しかも相変わらず問い続けている訳です。静寂の深夜に人生を悲嘆しながら星空のきらめきにかすかな希望をつなぎ、喧騒と混乱の幕開けたる夜明けをまた迎えるという連続の中にあって尚も問い続けるのです。これはもはや人間の「性分」としか言えません。問い、考え、また問うところに人間は存在する。存在するが故に本当に大切なことを希求する。この営みにこそ人間への「信」が依拠し、人間の「救い」があるのでしょう。答えがないとは言い切れない、あるかないかよくわからないのだから、あるかもしれないと思い定めて、人間として実に謙虚に粘り強く問い続けるという苦難の道を歩むことは、崇高で気高い生きざま、在り方であるとは言えないでしょうか。常に問い、考え、悩み続けることの意義についてもう一度思いを致してみたい心境です。
その心境を一言で言うならば……それはやはり「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」でしょう!
さて、立春を過ぎたとは言え、寒暖差があり、強風や突風が吹き荒れ、インフルエンザが流行し、花粉が飛び散るだけでなく、空気は乾燥し、凍結現象も発生するという当時季特有の状況を踏まえて、通常の安全衛生管理に加えた対策が必要とされています。慣れや思い込みに警戒し、1つ1つの対策の意味や理由を思い出しながら、緊張感を維持して作業に当たってください。
各人が自分の仕事のストーリーを思い描き、それに必要な条件を整えた上で確実に仕上げていくことにより、お客様に喜ばれ、次の受注へとつながる成果が得られます。先ずは期末に向けて、引き続き全社一丸となって職務に取り組んでいきましょう。ご安全に。