IWABEメッセージ
第40回「先ず万葉集より始めよ」
天皇皇后両陛下がご即位され、元号が「令和」に改められてから半年が経とうとしています。厳かに執り行われる式典のうちに、国民は、「日本」という立ち位置に感慨を新たにしたことでしょう。御代の弥栄を心よりお祈り申し上げます。
この夏のこと、家族で福岡県太宰府市にある坂本八幡宮を訪れました。いわゆる「令和」ゆかりの地に建つ神社です。古代に中央政府の出先機関として設置された大宰府、その政庁庁舎(都府楼)跡地は、今では史跡公園となってわずかに礎石が残されているのみですが、そこから西北へ向かった近くに坂本八幡宮は鎮座します。
改元時には夥しい人数の参拝客が訪れ、氏子さんを始めとして、対応に当たった地域の方々が相当なご苦労をなさったということは報道でも伝えられていたところです。私達が訪れた日も、かなりの人出で賑わっていました。こじんまりとした神社で、本殿横には、恐らく仮設であろう社務所が建てられていましたけれども、対応される方が「お休み」ということで、受付窓口は閉められたままでした。「令和」で注目されなければ、訪れる人も限られていたことでしょうし、のどかな田園に囲まれた、とても静かな「祈りの場所」であったことでしょう。想像に難くないところです。
ところで、何故坂本八幡宮の建つ場所が「令和」ゆかりの地なのか。もうご存知の方も多いでしょうが、一説によれば、奈良時代、そこに大宰帥(だざいのそち・大宰府長官)だった大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅があったとされており、そのことに由来するのです。
少し話は遠回りになります。太宰府市と言えば今では立派な街ですけれども、大宰府が置かれていた頃は、平城京や平安京から遥か離れた僻地でした。ですから、大宰帥が重要な使命を帯びているとは言え、やはり大宰府へ赴任するということは遠くへ飛ばされたようなものでした。大伴旅人の頃より後代の平安時代になって、あの菅原道真も大宰府へ「赴任」しました。この辺のことは、以前に「飛梅」の回にも触れたとおりです。彼は時の天皇の信任厚く、従二位右大臣にまで昇った人物です。それが左大臣・藤原時平の讒言(ざんげん・告げ口)により、「大宰権帥(だざいのごんのそち)」として大宰府へ左遷されてしまったのです。大宰権帥とは形の上では大宰府の副長官のような役職です。とは言え、大宰権帥の「権」は「権官」、即ち、定員外の仮の官職である「員外官」を意味し、ましてや従二位右大臣だった人物が就くような官職ではなく、それよりずっと格下が務めるようなものだったのです。さぞ無念だったことでしょう。しかも彼は事実上幽閉状態にあり、失意の極みにあって生涯を閉じました。そのさなかに彼が作った詩は有名です。「都府楼はわずかに瓦の色を看る。観音寺は只鐘の声を聴く」。自分は幽閉されているので、遠く離れたところにある政庁の庁舎はかろうじてその屋根瓦が見えるくらいだし、天智天皇の勅願寺である観音寺にいたっては、ただ鐘の音に耳を傾けることしかできない……。何とも言えぬ諦念、無力感、寂寥感が伝わってきます。今も観音寺(観世音寺)には、日本最古の梵鐘があり、道真はその音を聴いたとされます。その音を通じてしか、時の流れ、人々の営み、文化の息遣いを感じることができなかったのでしょう。数々の文化財が往時の繁栄を物語る寺院です。
閑話休題。「令和」ゆかりの地は、伝説上、かつて大伴旅人の邸宅があったと言われる場所でした。大宰帥・大伴旅人の屋敷を舞台として、いわゆる「梅花の宴」なる歌会が開催されたという記事が『万葉集』「巻第五」に見られます。その序文に「時に、初春の令月、気うるわしく風和らぐ」という文言が記されているのです。「令和」の2文字はそこから採られたが故に、「梅花の宴」の開催地たる大伴旅人邸があったとされる場所、つまり現在の坂本八幡宮の所在地こそ「令和」ゆかりの地である、ということになるのでしょう。(ここで元号の典拠が国書『万葉集』にあるという歴史的意義を改めて理解しなければなりません。)
我が国に現存する最古の和歌集である『万葉集』は、奈良時代に大伴家持(おおとものやかもち)などによって編纂され、全20巻、万葉仮名を用いた4536首が収録されています。原本は存在が確認されず、いくつかの系統の写本が残されるのみです。
古来『万葉集』の研究者は数あれど、やはり江戸時代の国学者達の名前を挙げないわけにはいきません。特筆すべきは即ち、契沖(けいちゅう・真言宗の僧侶で、徳川光圀から依頼された『万葉代匠記』等を著す)、荷田春満(かだのあずままろ・伏見稲荷大社神官の子で、『万葉集僻案抄』等を著す)、賀茂真淵(かものまぶち・春満の弟子で、『冠辞考』『万葉考』等を著す。『万葉集』の歌風を「ますらおぶり」と表現)、本居宣長(もとおりのりなが・真淵の弟子で、『古事記伝』等を著す)の4人です。
中でも本居宣長は、かねてより尊敬し傾倒していた賀茂真淵に会ってみたい一心だったところ、真淵が伊勢参りの帰りに立ち寄った松坂の旅館・新上屋にて対面することが叶いました。有名な「松坂の一夜」です。青年宣長は老翁真淵に「『古事記』を研究したい」と率直に話したところ、真淵は「それは結構なことだ。私も『古事記』に取り組んでみたかったが、『万葉集』を研究していたらこの年になってしまった。ただ、『古事記』を学ぶにしても、先ずは『万葉集』を勉強しなさい」と語ったと言います。宣長が真淵に会ったのはこれが最初で最後でした。宣長は直ちに真淵に弟子入りし、以後は「通信添削」を通じて、時に厳しい指導を受けました。2人の間で交わされた『万葉集』に関する一問一答は、宣長の『万葉集問目』に残されています。宣長が黒文字で質問を書いて江戸へ送り、真淵が朱文字で回答を記して松坂へ返送したのです。真剣に学問を追究する師弟の姿が目に浮かんでくるようです。
先ず『万葉集』から学び始めよ。これは、真淵が宣長に伝えたことであるとともに、宣長が自分の弟子達に教え諭したことでもありました。皇朝(日本)について知るには、『古事記』と『日本書紀』の2書を読むことが必須だが、そのためには何よりも先ず『万葉集』を勉強して、当時の人々の言葉遣いを理解し、その心を感じ取らなければならないということなのです。「古(いにしえ)の道を知るためには、古の歌を学んで、古風の歌を詠むこと、次に古の文を学んで、古風の文を作ることだ。古言を知らなければ、古意は知られず、古意を知らなければ、古の道を知ることはできない。この方法は随分遠回りなように見えても、それを避けては古の道は理解できない」(『うひ山ふみ』参照)。
基本をわきまえ、基礎を固めた上で、初めて応用編にチャレンジできる……。得たい物、目指したい所へ一足飛びに接近したり、到達できたりするような、そんな手品のような仕方はないですし、都合のいい話はありません。1つ1つ順を追って、手間暇かけて、さらには工夫の限りを尽くして目前の問題を解決していかなければ、遠き目標に到達することはできないということです。ただひたすらに日常の凡事を丁寧にこなすしかなく、当然そこには近道も横道も奇策もないのです。成果を求めるに横着をもってすれば、得られるものは「成果らしきもの」、イミテーション、ニセモノ、いや害悪にすらなりかねません。「立派な成果を上げた!」という壮大な「勘違い」を生む原因にもなり得るのです。
基礎を固めて得るための修練は、派手さとは無縁で、目立たぬところでの地道な積み重ねのみによって成り立ちます。しかし、その先に至ればこそ、ようやくにして人に認められるだけの成果が上げられるに違いありません。
上述のとおり、大宰府政庁跡は今や庁舎の礎石を残すのみですが、建物が残っていれば礎石には目が行かなかったことでしょう。しかし、礎石なくして庁舎が建ち得なかったという当然の事実に思いを致す時、万事に通じる原則に再び気付かされました。その原則とはつまり、「基礎を軽んずべからず、常に基本に立ち戻るべし」というシンプルかつ重大な命題のことです。偶然にもまた、近傍の坂本八幡宮が「令和」ゆかりの地であり、その理由が『万葉集』に求められるなかで、「日本」を知るための学問上の基礎・スタートラインが『万葉集』なのだという教えの内にも同様の原則を見出すことができたのでした。
大伴旅人達の宴は、日本の一時代を象徴する元号を生み、「日本」を考究し始める端緒を提供してくれたのだと強く認識するとき、私は素直に万葉人・旅人に深甚の謝意を表したい心境になります。
10月に入り、既に当社は第68期の第2コーナーに入っています。今期のみならず、来期以降の行方は、この時期の取り組み方に大きく左右されます。
ここでも同じことが言えるでしょう。前方を見据えつつ、目下の仕事を1つずつこなすにしかずです。そうして仕事を仕上げていけば、そこに結果として「令和」の意味するところの「うるわしき調和」がもたらされ、必ずや一定の評価をいただける機会を迎えられるはずです。まさしく今日が明日をつくります。
季節の移ろいを肌身で感じるこの頃、一層ご自愛のほどを。ご安全に。