IWABEメッセージ
第45回「淡海と淡路」
多賀大社は、「お多賀さん」と親しみを込めて呼ばれるように、当地方だけでなく、全国の多くの方々が参拝に訪れる「多賀信仰」の総本社です。「多賀信仰」とは、日頃の神恩への感謝とともに、厄除け、縁結び、延命長寿、家内安全、学業成就、商売繁盛等々、様々な御祈願を申し上げる信仰で、滋賀県(近江国[おうみのくに]。「近江」は古くは「淡海」と書かれました。琵琶湖が「淡水のうみ」だからでしょう。)にある多賀大社を始め、全国各地にある多賀神社が祈りのやしろとなります。多賀大社の御祭神は、伊邪那岐命(いざなきのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の二柱です。日本神話上、この夫婦神は国生みの神とされています。ここで、国生みの神話について触れておきましょう。紙幅に限りがありダイジェスト版となることをご了承ください。
天と地が初めてひらかれた時に、天上界である高天原(たかまのはら)に成り出でたのが、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かむむすびのかみ)の三神で、次いで二神が成り出でました。この五神の特別神に引き続いて、神世七代(かみよななよ)と称される十二神が成り出でたのですが、そのうちの最後の二神が、男神・伊邪那岐命と女神・伊邪那美命だったのです。伊邪那岐命と伊邪那美命は、他の神々から「未だ形が定まらずに漂っている地上界に国土を整えて造り固めよ」と依頼され、天の沼矛(あめのぬぼこ)という神聖な矛を授けられました。そこで二神は、天の浮橋(あめのうきはし)という天地間にかかる梯子に立って、矛を下界へ下ろしてかき回し、再び引き上げた時に滴り落ちた塩水が固まり積もってできた淤能碁呂島(おのごろじま)に降り立ちました。その地であれこれ「試行錯誤」の末、国土が生み出されていきます。最初が淡路之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)、即ち淡路島で、その後は順に、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州などが生まれ、さらに多くの神々も生まれました。
伊邪那美命は火の神を生んだのが原因で亡くなり、死後の世界・黄泉(よみ)の国に行ってしまいました。妻を愛しむ夫・伊邪那岐命は、妻に会いに行くのですが、変わり果てた妻の姿を見てしまい、また見られたことに激怒した妻から逃げてきたので、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのおどのあわきはら)で禊ぎ祓え(みそぎはらえ)をしました。その時にも多くの神々が生まれていますが、伊邪那岐命が左目を洗ったときに成り出でたのが天照大御神(あまてらすおおみかみ)で、右目からは月読命(つくよみのみこと)、鼻からは建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が成り出でました。父神・伊邪那岐命は、成り出でた三神を三貴子とし、それぞれ高天原、夜界、海を治めさせた後、淡海の多賀に鎮座したのでした。
「お伊勢参らばお多賀に参れ、お伊勢お多賀の子でござる」とはよく言われる言葉ですが、天照大御神は伊勢に鎮座し、父神・伊邪那岐命は多賀に鎮座することを知れば、なるほど納得できる言い方です。
ここでもうひとつ、伊邪那岐命が鎮座するとされる有名な神社があります。兵庫県淡路島にある伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)です。こちらも大変由緒ある神社で、淡路国の一之宮として広く信仰を集めています。
何故に伊邪那岐命が「お隠れ」になって鎮座するとされる神社が二社あるのか。これは、日本神話が依拠する2つの歴史書、『古事記』(和銅5年・712年成立)と『日本書紀』(養老4年・720年成立)との間に記事の違いがあるからなのです。
先ず『古事記』の現存する最古の写本「真福寺本」(北野山真福寺宝生院、つまり「大須観音」所蔵)によれば、「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐(ましま)すなり」とされています。他方、『日本書紀』によると、伊弉諾尊(いざなきのみこと)は「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて、寂然(しずか)に長く隠れましき」とされているのです。このために滋賀・多賀大社説と兵庫・伊弉諾神宮説の2説が主張されることになり、論争が続いている訳なのです。
西郷信綱氏は、他の『古事記』写本では「淡路」とされており、真福寺本では「淡路」が「淡海」と誤写されたのではないかとした上で、国生みで最初に生んだ淡路島こそ鎮座する場所にふさわしい、として伊弉諾神宮説を擁護しています。対して青木紀元氏は、『古事記』においては、「淡路」島のことを記述する場合は必ず「淡道」としているため、「淡路」を「淡海」と誤写することはあるかもしれないが、「淡道」を「淡海」と誤写することはあるまい、として多賀大社説側に立っています。それでは、35年間の月日をかけ、心力を尽くして『古事記』を研究した本居宣長の『古事記伝』ではどのように説明されているのでしょうか。
宣長さんは、いにしえの淡路島には「多賀」という地はなかった、として多賀大社説を支持するのですが、同時に、神には「現御身(うつしみみ)」と「御霊(みたま)」の別があり、前者は高天原にあって、後者はその高天原の宮に「なぞらえて」地上に造られた神社に鎮座するのであって、故に、ある神をお祀りする神社が日本中のどこにあってもよいし、現に各地に存在する、と指摘するのです。つまり、あくまでも最終的に神の「現御身」が「留まりまします」のは高天原で、伊邪那岐命の「御霊」が祭神として祀られる神社が、淡海や淡路に限らず、他のいずこにあってもおかしくはないということなのです。大変「建設的な」まとめ方で、多くの人々は、長い論争だけでなく深い信仰にも関心を持てるようになったはずです。
我々の周囲には、白黒つけられないことが沢山あります。どれだけ調べても、どれだけ考えても結論が出ないのです。結論が出ないということは、結論を出すのに必要とされる事実・情報が不足しているか、または結論を出すだけの能力が欠けているかのどちらかが理由として想像できますが、その情報や能力が可能な限り揃っていたとしても、結論を出せない事柄はあるのです。つまり、どこまで突き詰めてもわからない「永遠の不明」です。ところが人間とは興味深いもので、「永遠の不明」を避けるのではなく、敢えて挑み、悩み続けようとするのです。試行錯誤は続き、とてもゴールは見えません。ゴールは自分の力では到達できそうもない所にあるのでしょう。そこがどこだか、どのような所だかわからないからこそ、様々な考え方が生まれては消え、浮かんでは沈むのです。まさに永遠の相の下、繰り返される光景ではありますけれども、そうした連続性にこそ、人間の営みの奥深さ、文化の厚み、社会の多様性が成立し得ることに気付かなければなりません。だから「永遠の不明」との格闘には、人間の「面白味」が湧き出てくる余地があるような気がします。この「面白味」があるところ、「無限の可能性」も秘められていると信じてよいのではないでしょうか。そうした意味でも、白黒はっきりさせない、はっきりできないことの効用にも思いを致すべきなのでしょう。
結論が出て、白黒はっきりしてしまうと、そこで一定の方向性が示されたとして、人間はそれに依存し、思考停止してしまう傾向にあります。思考停止は、惰性と無関心と無責任の温床となり、そこで見られる変化と言えば「退歩」のみとなります。ひどく浅い見方によると、上述の連続性という様子は、まるで「賽の河原の石積み」、つまりいつまで経っても達成できない目標を追い求める無駄な努力のように思われてしまうかもしれません。しかし、だからと言って、その連続性の中に身を置くことを避けられないのが「人間の定め」であり、「永遠の不明」と対峙しなくてはならないという「宿命」なのです。ただ、もうおわかりのように、この「定め」なり「宿命」なりは、人間の営みの素晴らしさにつながっていくのです。答えに到達できそうになくとも、諦めずに喰らいついて、執念をもって考え続ける。人間の歴史とは、こうした連続のことを言うのではないでしょうか。この意義を否定しては、地蔵菩薩さまも現れてはくれますまい。
白も黒も、勝者も敗者も判明しない、故に自分自身が問い続けなければならない「未知の領域」には、我々の感性を豊かにしてくれる「余白」、いや「空白」を見て取ることができます。その「空白」に想像力を働かせ続けることの楽しさを改めて幸福として捉えたいものです。但し、繰り返しになりますが、「空白」を「空白」のままにしておくことを潔しとせず、不断に探求・考究し続けていくことが我々の務めであり、今この時を生きる者として負わねばならない責任であるということを決して忘れてはならないのです。
「忙中の閑」すらない日々の業務を確実にこなしていく過程には、時に大きな困難に直面することもあるでしょう。苦闘することもあるでしょう。しかし、仕事の上では、不明を不明のままにしておくことも、未解決を未解決のままにしておくことも許されません。曖昧にしたまま、他人事のように傍観していては、問題は悪化するのみで、ますます解決しにくくなっていきます。問題の「芽」は可能な限り小さいうちに摘んでしまうに限ります。少し立ち止まって、その「芽」を見逃さないようにする。つまり、早期発見・早期解決が大きな事故やロスを未然に防ぐのです。
取り巻く環境が厳しく難しければこそなお一層、横の連携と縦の連携を駆使し、皆で知恵を出し合って、ひとつひとつの局面を乗り越えていきましょう。
今年も見事な桜花を愛でられる、その幸せを大切に。ご安全に。