IWABEメッセージ
第47回「隠密同心とリンゴの木」
休日に近所のスーパーへ買い物に行き、食料品売り場を歩いていると、その一角にちょっと変わった掲示を見つけました。色々な商品が雑多に集めて積み上げられたところに、広告文がペタリと張り付けられています。「私たちに明日という日はありません」。一瞬何のことかと驚き、首を傾げたのですが、要はそこで賞味期限や消費期限が迫った商品が値引き販売されていたのです。期限切れの商品が辿る末路は容易に想像がつくところで、その意味で「彼ら」商品達にとって「明日という日はない」ということになるのでしょう。なかなかに洒落の効いた面白い表現で、売り場担当者のセンスに感心しました。勿体ない、物を大切にしようという考え方がとても大切であると再認識されている中において、期限切れの迫る商品達の悲痛な叫びと必死の願いが聞こえてきたような気すらしました。
明日という日はない……。このフレーズで思い出すのは、かつて東京12チャンネル(現在のテレビ東京)で長きにわたって放映された時代劇『大江戸捜査網』です。当時は日産自動車がグループ挙げて番組提供し、「人とクルマの明日を目指す、技術の日産」と大々的に宣伝していました。私もまだ小さい頃でしたけれども、土曜日の夜になると親と一緒によく見ていたので記憶に残っています。
ご存じの方も多いとは思いますが、『大江戸捜査網』とは、普段は町人の姿で市井に生活するも、一旦命令を受ければ江戸にはびこる悪党どもを徹底的に退治していくという「隠密同心」の活躍を描いた、まさしく典型的な勧善懲悪ドラマです。リズミカルで迫力のあるオープニングテーマ曲も有名で、またその曲中のナレーションによって「隠密同心」に関して簡潔に説明がなされています。引用しますと、「隠密同心。それは、旗本寄合席・内藤勘解由(はたもとよりあいせき・ないとうかげゆ)に命をあずけ、人知れず人生の裏道を歩かねばならぬ宿命を、自らに求めた者達である。極悪非道の悪に虐げられ、過酷な法の冷たさに泣く大江戸八百八町の人々を、ある時は助け、励まし、またある時は影のように支える彼ら。だが、身をやつし、姿を変えて敢然と悪に挑む隠密同心に、明日という日はない」。江戸中期の名老中・松平定信(「寛政の改革」で有名)が極秘裏に結成した組織のメンバーが「隠密同心」で、その元締めが「隠密支配」こと内藤勘解由になります。内藤は「隠密同心」達を操り、悪の黒幕やその配下どもを完膚なきまでに成敗して一件落着、エンドソングへと流れていくのです。痛快この上ないのですが、言うまでもなく当然これらはすべてフィクションです。
では、どうして彼ら「隠密同心」に「明日という日はない」のでしょうか。その答えは、番組終盤になって「隠密同心」達が悪党成敗に向かう途中に挿入されるナレーションにあります。即ち、「隠密同心心得之條(おんみつどうしんこころえのじょう)」がそれです。また引用します。「隠密同心心得之條。我が命我が物と思わず、武門之儀(ぶもんのぎ)あくまで陰(かげ)にて、己の器量伏し、御下命如何(いか)にても果す可(べ)し。尚、死して屍(しかばね)拾う者なし。死して屍拾う者なし」。これは強烈な定めです。隠密に徹し、命を懸けて必ず当局の命令を実行せよ、但し、その結果命を落としても当局は一切関知しない、という訳ですから、冷酷無情の極みと言ってもよいくらいです。確かにこの使命貫徹を絶対とするならば、彼らに明日の保証などあったものではないでしょう。
新入社員だった頃は歴史的好景気(のち「泡」と消え去る)だったので、寝る間もないほどの忙しさでした。深夜に疲労のピークに達するとトイレにこもって「仮眠」することもありましたし、中には会社の近くにホテルを予約して寝泊りする強者もいました。毎日毎日伝票がぎっしり詰まった段ボール箱が引っ切り無しに送られてきてはドスンと無造作に置かれ、終わりの見えない業務量に嘆息することしきりでした。眠気で意識が朦朧とする中で数字を追うのがやっとだったのに、本当によく決算ができたものです。そんな最中に先輩上司から言われました。「お前ら『隠密同心』だからな」。多くの仲間は何のことかわからずキョトンとした顔をしていましたが、私には思い当たる節がありました。不思議にもかすかに記憶に残る「隠密同心心得之條」の言葉が甦ってきたのです。御下命はいかにしてでも果たせよ、でもな、死んだとしてもそのシカバネを拾う者はいないからな、というアレです!随分ひどいことを言う人だなと思いましたが、それもこれも、先輩上司本人を含めて激務の真っ只中に置かれている現状を、自虐を込めて精一杯皮肉ってやろうとしたユーモアと優しさの裏返しだったと気付いたのは、かなり後になってからのことでした。勿論、今の時代の人に「隠密同心心得之條」を説いたりすれば、たちまちに労基署がご登場になることでしょう。
少し話がずれましたが、ここで考えるべきは、「明日という日はない」という命運についてなのです。
明日がない、と言われたら、あるいは判明したら、人は一体どう考え、動くでしょうか。自暴自棄になってしまい、これまでの人生で培い形成してきた価値観や行動律などの類を一切かなぐり捨てて、本能と欲望の赴くまま、やけっぱちでやりたい放題のことをしてしまうのでしょうか。例えはよくないですが、死刑囚は死刑執行当日にどういう態度を取るのでしょうか。明鏡止水の境地に至り、穏やかに死を受け入れる人もいる一方で、恐怖のあまりひどく暴れてしまうケースもあるそうです。これは大変難しい問題であることには違いありません。しかし、フィクションとは言え、「隠密同心」は、彼らに明日という日がなくとも、御下命に従い、悪を成敗する訳で、この迷いも揺らぎもない絶対的な使命感とは一体何なのでしょうか。ただ背水の陣の心構えで事に臨ませるために、言葉の綾として「明日という日はない」だの「死して屍拾う者なし」だのと言っているだけだというように簡単に片づけられる性質の事柄でもないでしょう。本当に、現実に「明日という日はない」のに、明日という日のために、また明日の世のために必死に活動しようとする、この姿勢とは一体何なのでしょうか。もう少しだけ考えてみたいと思います。
作家・開高健(かいこう たけし1930‐1989)は、色紙にサインを求められた時、そこに箴言・金言・名言を書き添えました。数ある中で彼が好んで記したのが「明日世界が滅びるとしても、今日あなたはリンゴの木を植える」という言葉でした。一説では、16世紀ドイツ宗教改革運動の中心的人物マルティン・ルターが語った言葉だとされています。思い切って言い換えてみると、明日という日はなくとも今日という日を平穏かつ粛然と生きる、ということになりましょうか。それにしても、この言葉のうちには計り知れぬ奥深さを感じてしまいます。同時に何かしら力づけられるような気持ちにもなります。
将来に、いや明日に絶望しかけたとしても、また、これから先報われるようなことはないと落胆したとしても、さらには目前に暗黒と悲嘆しか見えてこないとしても、今日という日を「普通に」大切に生きる。その意味や理由を求めなくてもよいし、それがわからなくてもよい。ただただ「ささやかな一歩」を踏み出す。この生き様、振る舞いにこそ、はっきりとした輝きが見い出されるのだ、と我々は語りかけられているのでしょう。
普通の一歩、当たり前の一歩をまさに今踏み出すということと、明日の世界の帰結とは一応切り離して考えなければならないのかもしれません。つまり、今の一歩たるもの、「明日〇〇となるから」とか「明日〇〇が得られるから」といったことを動機とする一歩ではなく、難しく言えば、その時々の行為が本来的に内包しなければならない純然たる意味や客観的な価値を持った一歩であるのかという視点で捉えなければならないのです。まさしく今という時に踏み出す一歩において、個々人の価値観が人間の普遍的な「矩(のり)」へとつながることにこそ至福の喜びを見い出せ、という「声」に耳を傾けてみると、不明という「もや」が少しずつ晴れていくようです。
現代社会は、複雑かつ細密に管理され、人間は機械と同等の生き方(機能と成果)を求められています。全くもって息苦しくて仕方ありません。大雑把とか、まあまあのところとか、いい加減の塩梅とかいった概念を許容しないのです。白か黒か、イチかゼロか、損か得かで区分けされ、結果そこではギスギスした衝突ばかりが発生してしまい、日常生活には滑らかさも潤いも艶やかさもなくなってしまっています。いやはや何とも乾燥しきった、味気のない、刺々しい言動が渦巻く世の中で、中途半端に利口ぶった評論家のような方々が闊歩し、無責任にも他人の批判ばかりしています。「即物的」そのものの思考で世間を斜に構えて睥睨する彼らの心に、果たして「明日世界が滅びるとしても……」という箴言は伝わり響くのでしょうか。悲しいかな、どれだけ耳をそばだててみても、彼らの方から反響音は聞こえてきません。
それでも「リンゴの木を植える」。この営みだけが、私にとっての、また恐らく多くの人々にとっての「生の救い」になるような気がしています。たとえ蜘蛛の糸1本ほどのか細く弱々しい「希望」だとしても、それを失っては、もはや人として底無しの虚しさしか残らないことになってしまうのでしょう。これほど残念なことはないはずです。
明日という日が時に大きな目標にもなり得るとしても、だからと言って今日という日はその単なる手段や方便では決してありません。むしろ逆に、今日を生きるということにとって、あるいは明日は副次的な意味しか持たないのかもしれません。
難しく考える前に、無心にリンゴの木を植えることにします。
世情不安定にて、混乱は続きます。こうした事態であればこそ、自らの立ち位置をしっかりと見定め、基本の「型」を忘れることなく、どっしりと構えて、着実に歩を進めるしかありません。右往左往したり、風説に流されたりすることなく、しかし同時に、状況の変化を敏感にキャッチして、臨機応変で柔軟な動きをするようにも要求されます。難しい要求ですが、このご時世、ある意味オーソドックスな仕事の仕方が求められているとも言えます。
今期第68期もいよいよあと1ヵ月となりました。一所懸命に今日を務め上げ、明日という日に臨んでいきましょう。ご安全に。