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第50回「道々の草々」
この時季になると、散歩をしていても、また車窓から外を眺めても、視界に入ってくるのは、道端で力強く生えて存在感を示している雑草です。どれだけ草刈りをしても、そんなことは物ともせずに何度でも生えてきます。どんなに痩せた土壌にあっても、太陽の光を一杯に浴び、天から恵まれる水分を吸収し尽くして、呼吸と光合成という「酸素と二酸化炭素の共演」を繰り返すうちに、これでもかと言わんばかりの生長と繁茂を見せつけているのです。その種類は数知れず、放置すれば量的にも無限に増大していくが如き有り様は、人々に生物学的分類へ興味関心を向けさせる以前に、時に憎悪の感情すら抱かせてしまうほどです。根は土中深くしっかりと張り、茎は草というよりも木のそれに近いものすらあります。葉は堂々と広がって、まるで日光を独占しているようです。同じ生命体である人間から見ても、雑草の生命力には脅威すら感じることもあるでしょう。よく「彼は雑草のようにパワフルで逞しい人間だ」などという比喩表現がありますが、本物の雑草はそれとは比較にならないほど強靭そのものです。それから何と言っても、多くの人間が選んで好む「整然とした景観」の維持を阻害してしまう雑草の存在は、本当に鬱陶しくて仕方ないの一言です。人間好みの環境を整備するということは、いやはや実に骨の折れることです。
こうした感想は、恐らく大多数の方々がお持ちのことでしょう。人間本位で、いささか身勝手ではありますが、率直な感想には違いありません。今回は、そんな雑草について寄り道しながら語るうちに、あれこれ考えてみたいと思います。
植物学者の先生方は、「『雑草』という名称の植物はありませんぞ」と指摘されます。しかし、「そんなことは百も承知で、一々名称を挙げていては話が進まないから、まとめて雑草と言っているんです。日常生活の会話でそんな細かいことを指摘されてはうんざりしてしまいますねえ」などと返すとしたら、これまた野暮の極みでしょう。素直に植物学先生の言葉をユーモアと受けとめ、さらりと次の話題へ切り替えればよいのです。(ただそれがユーモアではなかったとすると厄介ですが。)とは言え、「百も承知」なのは、「雑草」という学名がないということであって、ここで重要なのは、私自身、植物の種類の名前をほとんど承知していないということなのです。面倒だからまとめて雑草と言っているのは本当かもしれないが、そもそも雑草ひとつひとつの名前を知らないではないか、ということです。要は「無知」です。
多少は覚えようとした時期もありました。例えば、小学校の夏休みの宿題であった植物採集と標本作りの時です。近所に生えている「様になりそうな」植物を採ってきて、新聞紙に挟んで上から重しを乗せ、しばらく後に新聞紙を取り換えてまた重しを乗せ、といった作業を繰り返して標本を作るのです。一応宿題ですから、植物図鑑とにらめっこしながら植物名を調べ、学術上の分類や採取した場所の状況なども併せて記入した紙を当の植物と一緒に画用紙に張り付けて完成、晴れて始業式に提出という運びです。提出してホッと安堵したその日から植物名は徐々に忘却の彼方へと消えていきました。今では完全に記憶に残っていません。何という植物だったか……。元々関心がなかったのでしょうか。当時の「名もなき」草々は、残念ながら今もなお「名もなき」草々のままです。
少し前のテレビ番組でのこと、ある俳優が確かこんなことを話していました。「若い時に友達グループでバーベキューをやることになり、男女ペアになってそれぞれが担当の食材を買い出しに行くことになりました。私には意中の女子がいましたが、くじ引きで組むことになったペアの女子は別の人でした。普段からあまり話したことはないし、正直言って器量も自分のタイプではありませんでした。ですから、買い出しに行く途中は、会話もなくて、とてもつまらなく、半分ふてくされていました。ため息交じりに歩いていると、急にペアの女子が道端に駆け寄ってしゃがみ込みました。一体どうしたんだと思って近寄っていくと、その女子は『これは〇〇という植物、あれは△△という草で小さな白い花をつけて……』とそこに生える雑草の名前を楽しそうに話し始めたのです。有名な花ならまだしも、いつもは意識すらしたことのない雑草の名前を、あれだけ沢山知っていることに大変驚きましたし、当たり前とは言え、ひとつひとつの草々が個性的で深い意味のある名前を持っていることがとても新鮮に感じられました。同時にその瞬間、私は、無邪気に披瀝される知識の奥の方から人間の本当の優しさのようなものが伝わってくることに気付いたのです」。彼は、雑草の名前を知らなかったことよりも、人間にとって一層大切なことに気付いていなかった不明を恥じたのでした。
道々の草々でも、よく見かける花々や木々でも、植物学的にはれっきとした名前を付けて分類され、自然界を構成しています。それら植物に関する膨大な知識・情報によって我々は圧倒され、それ故に接近しがたく、「忘却」やら「無関心」という言葉を隠れ蓑にして、ついつい敬遠して距離を置きがちになってしまうというのが本当のところなのかもしれません。従って、意識的であれ無意識的であれ、理解は本質に達せず、表面的で浅薄な納得に終始し、軽率で得手勝手な取捨選択が横行して、本質は眼中から除外されてしまうのです。これは何事にも十分あり得ることで、先程の俳優の思い出話で言えば、いつも見向きもしないような雑草それぞれの世界の本態や意味について全く想像力を働かせてこなかったように、人間の本当の美しさに全く思いが及んでいなかったのです。ところが結局、雑草が機縁となって、表層的で一時的な「美」ではなく、純粋な美に触れることができたのです。この美は器量とは無関係で、心根(こころね)、いや心根を中心にした人格そのものに備わるのでしょう。
実は人目につかず、隠れた(本人が敢えて表に出さず、自慢もせず、自己顕示もしない)ところで、また、光が当たらず、派手さとは無縁なところで輝いている人、感心・感動する行ないや振る舞いをしている人はいます。そうした人々の内にこそ素直に認識でき、自然に受け入れられるような美しさ、優しさが存在するのでしょう。まるで誰からも気付かれることなく、道端でひっそりと生え、ほんの小さな可憐な花を人知れず咲かせている雑草と似ています。もうここまで来ると、雑草の意味も少しずつ変わってきているようです。
大体からしてその植物が雑草かどうかは、「人の見方次第」とも言えます。華麗なバラや鮮やかなカーネーションと何が違うのか。すべては「人の見方次第」です。例えば「七草」です。つまり、春の七草「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」、秋の七草「おみなえし、おばな、ききょう、なでしこ、ふじばかま、くず、はぎ」のことです。(夏や冬にも七草はあるようです。)名前は暗記しても、どれがその植物なのか、実物と照合できないという情けなさはひとまず措くとして、これらの草々は、万病除けの風習として一定の時季には珍重され、進んで食されます。しかし、旬を過ぎたらほとんどの人から関心は向けられなくなります。旬ならば日本文化を彩る風物詩、旬を過ぎればただの草。昔、上司に「仕事にはタイミングがある。それを逃したら意味がない。『七草や七日過ぎればただの草』だ」とお叱りを受けたことがありましたが、これとて同じことで、旬であろうとなかろうと、同じ草に変わりはなく、変わっているのは人間の見方のほうなのです。便宜的に重宝がって持ち上げたり、時季が過ぎれば放擲(ほうてき)したりというのは、人間のご都合主義に他なりません。「文化なんぞそんなもんだ」と斜に構えるのはよしましょう。雑草という例を通して、真価に迫るとはどういうことかを考えているのです。
三省堂の『新明解国語辞典』によれば、雑草の意味はこう説明されています。「①利用(観賞)価値がないものとして注目されることがない草。農作物や栽培樹木の生長の妨げになる場合は取り除かれたりする。②知識が乏しいために、名前を言うことができない、多くの草」。②は、今回頭初に触れた「無知」を説明しています。①は、まさしく「人の見方次第」、人間の便宜とか都合で価値が左右されるさまを表しています。
「無知」に起因して一定の植物に「雑」草の烙印を押し、「それで十分」と思考停止してしまうことも、ご都合主義で評価を付与したり剥奪したりして、価値を任意に定めてしまうことも、実はその植物が秘めたる真価を見い出すこととは全く別次元のことです。勿論、植物という自然科学的存在に内包される価値などあるのか、という疑問もあるでしょう。これには「ある」と答える考え方があります。動植物はおろか、道端の石ころ1つにも何ものかが宿り、主観に左右されない価値や意味を有すると考えるのです。この問題について、ここでこれ以上詳しく説明することは簡単ではありません。別の機会に譲ることとします。ただ、人間にも、雑草にも、それぞれに内包する大切な価値があり、そのふたつがつながった時に、人間を通して雑草の素晴らしさが、また、雑草を通して人間の素晴らしさが、他者にもじんわり伝わっていくということだけ指摘しておきたいと思います。道端に生える雑草と、その雑草の名前を楽し気に話す女子から、かの俳優は、真の美しさ、優しさ、温かみを知り得たのでしょう。
「無知」や便宜を乗り越えた先に出会えるもの。それを感じ、見い出し、見極められたとしたら、その瞬間、間違いなく心は震えるのでしょう。
雑草を憎み、疎み、鬱陶しがっていたのに、どうしたことでしょうか。浅く考えては間違いの元となる一方で、深く考えると思わぬ結論に至ることもあるようです。しかし、そこに至ってようやく心の平安と平衡が得られるというものなのです。ああ悩ましや、悩ましや。
さて、今期第69期もスタートして2か月が経ちました。「まだ」なのか「もう」なのか、考える以前にとにかく暑い。猛暑や台風に最大限警戒しつつ作業を続けることは、まさに自然の中で生きながら、時に自然と対峙して闘うということを意味します。働くには大変な困難が伴う季節ですが、これまでの経験を活かし、他所の知見を取り入れて、どうにか乗り切ってもらいたい、そのために先ずはひたすらに健康管理を徹底してもらいたい、切にそう願います。苦闘の1日があってこそ竣工を祝う日を迎えられます。
「災害は忘れた頃にやって来る」。引き続き油断なく、一歩ずつ職務に邁進しましょう。ご安全に。