IWABEメッセージ
第53回「音楽の響き」
朝比奈隆の指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏によるブルックナーの交響曲第8番については、愛知県芸術劇場でのコンサートにおける、天空へと突き抜けるが如き圧巻の音響にも感動しましたが、最近改めてCDで聴いてみても、神々しくさえある名曲の一音一音を味わううちに、音の大波小波の中を漂うような心地よさを覚えずにはいられませんでした。やはりクラシック音楽なるもの、間口はとことん広く、奥行きはどこまでも深い。かつて西洋法制史のS先生から「クラシック音楽を聴かないとは実に勿体ないですねえ」と残念がられた時からもう何十年と経ち、今では一端のクラシック音楽好きになりました。時とともに感趣の対象は、常に拡大し変化していくもののようです。
そこで今回は先ず、「クラシック」、英語で表記すると“classic”という言葉の意味から考えてみたいと思います。
“classic”の語源を辞書で調べてみると、それはラテン語の“classicus”に由来するとされます。“classis”+“icus”で「あるクラスに属する」、転じて「最初のクラスに属する」とか「最高の」という意味を持ちます。英語の“classic”(形容詞としては“classical”とも言う。)は、「古典的な」、「決定的に優れた」、「最高級の」、「高名な」、「伝統的権威のある」、「定番の」などといった意味で、名詞としては「古典」、「古典作家」、「名作」等々と訳されることが多いです。語の原義「最初のクラス」の「最初」とは、ある事柄が時系列的に最初の頃、つまり古い時代に属するということよりも、むしろその内容自体のレベルの高さ故にトップに位置づけられるということを意味するのでしょう。もっとも、この言葉が本来的に想定していたのは古代ギリシア・ローマ文化のことだったので、今から思えば優れた人類文明の初めの頃のことを指していたとも言えるかもしれません。現在では古代ギリシア・ローマ文化のことだけではなく、その時代、その時代における最高水準の品質・出来映えをもって完成された事柄・作品全般が“classic”と称されています。この“classic”という語は、芸術や生活様式など幅広い分野で使用されますが、特に音楽関係で用いられることが多いでしょう。それが即ち「クラシック音楽」です。
どこでクラシック音楽に触れるかと言えば、コンサート(演奏会)、CD、DVD、テレビやラジオの番組、それにネットなどが思い浮かびます。最近では、色々な事情が重なって、演奏会からはめっきり足が遠のいてしまっています。せいぜいのところ自動車の中で(安全運転に配慮しつつ)ボリュームをアップしてCDを聴く「1人観客の演奏会」を「毎日開催」して楽しんでいるぐらいです。これまでに相当の枚数のCDを収集してきたので、その日の気分に合った曲や演奏家のCDを選び出して車中で聴くことは、ささやかな憩いであり、喜びでもあります。(ですから、ダウンロード全盛の時代とは言え、CDプレーヤーがなくなってしまうと大変困るのです。手元にあるCD達が、かつてのカセットテープやビデオテープ、それからレーザーディスクと同じ末路を辿らないよう切に祈るばかりです。)自宅では「ご近所迷惑」という5文字が付きまとい、ヘッドフォンを着用せざるを得ないため、耳でリズム(律動)・メロディー(旋律)・ハーモニー(和声)を聴き、体全体でその響きを感じることができる「車中演奏会」の方が好ましいのですが、それでも何度考えたところで、やはり生の演奏会(ライブ)への実地参加には到底及ばないことは明々白々なのです。作曲家の人生観と創造的想念が如実に反映される音楽作品は、指揮者、歌手、楽器演奏者達の情熱や技巧により実演表現され、それを我々が鑑賞する……。品格と迫力、やり切れぬほどの哀愁、底知れぬ寂寥感、生命力に満ち満ちた躍動感、光明を見る高揚感。結果得られるものは、充実感、満足感、幸福感という心の潤いと言えましょうか。これらの感覚は、音楽の響きが、目から、耳から、皮膚から、つまりは体中の器官すべてから感知され、身体中は勿論、心の中心にまで到達し、そこに充溢して初めて得られるものに他なりません。この充溢が可能になるのは、作曲家と演奏に携わる人々と観客とが同一の時間と同一の空間を共有できる機会、生の演奏会においてだけなのです。
とは言え、そもそも当地方では、演奏会の大小を問わず、開催される数が少ないという現実もあります。海外の有名オーケストラが来日公演する時でも、当地方では開催されないケースもしばしばです。勿論、当地方でも地道に演奏会を催している人々が少なからずおり、古くから活躍する実力派の地元楽団もあります。同時にそれらの演奏家や歌手の活動をしっかりと支え続ける心温かいファンが存在することも事実で、その熱心に応援する姿勢には本当に頭の下がる思いがします。しかしながら、開催される演奏会の回数にせよ、演奏家や歌手の人数にせよ、いやもっと言えば、クラシック音楽支持層全体の人口にせよ、首都圏や関西圏が当地方をはるかに凌駕していることは紛れもない現実なのです。演奏会場の入り口で無料配布される「今後予定される演奏会のご案内」チラシの枚数(厚み)ひとつ取ってもわかります。「いやはや、これだけ毎日のように、どこかで誰かの演奏会が開かれているのか」と素直に驚いてしまうほどです。ただ、この状況をして「地域差」と嘆いても仕方ないところではありますし、どんな田舎町にあっても、クラシック音楽を愛し鑑賞を切望する住民と、その願いを何とか実現させたいと懸命に汗水流す人々を見い出すことができます。どこであれ重要なことは、たとえ機会は少なくとも、珠玉の如き名演に遭遇できるかどうかという一点に尽きるのでしょう。力強く、時に華麗なタクト裁きを見たか。スコアに忠実に、それでいて極めて個性的に放出される音々の調和を奏者の情熱もろともに堪能したか。魅惑的で透き通るような歌声の魔力に酔いしれたか……。あの指揮者、あの歌手、あの演奏家の熱演を一目見てみたい、あの名曲を一遍でよいから聴いてみたい、ただひたすら名演に感動したい、そのために演奏会に出かけよう!……悲しいかな、要するにこの意欲なり習慣なりが、最近弱まってきているようなのです。「地域差」は理由になりません。もしや個人的にも社会的にも、取り巻く環境の変化が著しく、望めども叶わぬことが増えてきているからでしょうか。しかし、様々な意味において、周囲がもう少し落ち着いた状況になってくれば、また夫婦で演奏会に出かけてみたいと願っています。
思い返せば、あちらこちらのコンサートホールに出かけたものです。国の内外を問わず、都心か地方かを問わず、また有名無名を問わず、歌劇場や教会聖堂も含めて精力的に足を運びました。楽都ウィーンの煌びやかなムジークフェラインザールにも、鄙びた田舎の古ぼけたホールにもそれぞれに輝ける個性があります。歴史、形状(シューボックス型、ワインヤード型等)、意匠、音響性能(残響音等)、それら全体が醸し出す雰囲気等々。何より多くの人々に誇りとされ、末永く愛され続けるホールこそ、芸術の華開くに相応しい場であるに違いありません。
主に交響曲や管弦楽曲を選好するので、プロ・アマ関係なく、オーケストラの演奏を鑑賞する機会が多かったのですが、見事な音色に引き込まれ、背筋がゾクゾクするほどの感動を覚えた演奏だけでなく、例えば台風で観客がほとんど来ていないのに何度でもアンコールに応えてくれた心温まる演奏なども強く印象に残っています。オーケストラにも得手不得手、長所短所、技量というものがあります。それを個性というのならば、指揮者による味付け次第で、その個性は千変万化します。なお言うと、同じオーケストラが同じ曲を異なった指揮者の指揮によって演奏すると、とても同じスコアから導き出された音色とは思えないほどの違い、全く別の曲を聴いていると感じられるぐらいの違いが表出するのです。いや、たとえ指揮者が同じでも、その時々で出来栄えに差が出ることすらあり、これは、演奏家の力量不足だけでなく、音楽表現の難しさが引き起こす特有の複雑性・多様性と考えるしかないようです。特に不協和音と無調の現代音楽は、指揮者と演奏家(個性と個性)による協働作業の出来不出来に大きく左右されます。黛敏郎や矢代秋雄、武満徹などの作品は、この協働作業の行方に命運が委ねられていると言えば大袈裟でしょうか。
指揮者とオーケストラとの関係で思い出しましたが、どこかでこんな話を聞いた覚えがあります。有名な話なのでご存知の方も多いでしょう。指揮者の岩城宏之が若かりし頃に巨匠(マエストロ“maestro”)カラヤンに指揮法について面白いアドヴァイスを受けたという話です。カラヤンが言うには、オーケストラの指揮は乗馬と同じで、騎手が自分本位で無理に馬を操って動かそうとする(ドライブ“drive”する)と、目的地には到着できても、強引さが仇となって人馬共に実につまらない乗馬に終わってしまう、だから馬をむしろ自由に動かして、馬の持つ能力を最大限発揮させるうちに目的地に向かう(キャリー“carry”する)ことができれば、全体として素晴らしい乗馬になる、と。つまり指揮の仕方もドライブではなくキャリーすることが極意であるとの趣旨です。比喩としても演奏家を馬扱いするのはどうかとは思いますが、実に言い得て妙です。幼少より修練を重ねて技芸を究めてきたプライド高き演奏家集団という「扇面」に対して、その「要」たる指揮者もまた譲れぬ信念を抱く芸術家を自負しています。ここにおいて、扇面を束ねて爽やかな風を起こすためには、先ほどの例で言えば見事な「乗馬」が成立するためには、「騎手」たる指揮者は、一見演奏家を自由気ままに振る舞わせておきつつ、その中から彼らの持ち味を上手に引き出し、それを巧みに集約して、ひとつの堂々たる流れ、優れた演奏芸術を実現しようと試みなければならない、つまりキャリーによるコントロールで美しい音楽の響きを生み出さなければならないということなのです。この話は、あらゆる類いの組織、つまり複数の人間で構成される集合体のいずれにおいても当てはまるように思えてなりません。万事に通じる興味深いヒントを得られた気分です。
ドライブとキャリー。理屈はわかりますが、言うは易しでもあります。あとは、この違いを常に心しながら日々悪戦苦闘し、それこそ「キャリア」(“career”も“carry”も“car”から派生した語)を重ねていくしかありません。まるでキャリーによってのみ演奏可能な音楽、真に人々の心を癒し、鮮やかに光輝を放つ音楽の響きを求め続けるように。
我が日本は四季の移ろいの中にあります。冬を迎えれば、寒さと乾燥に対峙しなくてはなりません。冬特有の衛生管理に留意しながら、自らの健康維持を心掛けてください。
激動と混乱の令和2年もあと1ヵ月です。来年は日本人皆が上を向いて歩けるようになってほしいものです。そのために我々としては、将来を見据えつつ、目下の受注と施工に専心注力するのみです。持ち前の才覚・技量を能う限り発揮して困難を乗り越え、全体として見事な調和(ハーモニー)を得て、携わる仕事を完遂することができるよう日々努めていきましょう。ご安全に。