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第57回「川の流れをじっと見つめて」

 中欧チェコ共和国の首都プラハ。その冬の寒さは、我々にはなかなか想像できないぐらい厳しく、体の芯まで冷え切ってしまって苦痛すら感じるほどです。日中は少し暖かいからと油断でもしようものなら大変なことになります。しっかりと防寒着を重ねたつもりでも、とても夜の寒さには耐えられません。昼頃に旧市街を散策していた時に、ある教会で開催される夜間コンサートの切符を購入し、夜になって聖堂へと向かいましたけれども、堂内とは言え空調設備はなく、街なかの寒さとは別の途轍もない底冷えに震えて身を屈めていざるを得ませんでした。演奏の始まる直前に出入り口が閉鎖され、途中退席も困難となり、ただひたすらに厳寒に耐える姿は、はた目には「敬虔なる信者」のそれに映っていたかもしれません。堂内に響き渡る教会音楽は、凍てつき固まった我が心身を色々な意味で震わせてくれました。翌日にもコンサートには出かけましたが、チケットに“airconditioned”(空調完備)と明記されている会場を選んだことは言うまでもありません。
 それでもプラハは美しい街でした。歴史的建造物が立ち並ぶ旧市街の趣きに異国情緒を満喫し、街の中心を悠然と流れる「川」に架けられたカレル橋からは、はるか聖ヴィート大聖堂を眺める……。尖塔が多いために「百塔の街」と呼ばれるプラハは、しかし、歴史的に見て「明と暗」、「繁栄と衰退」、「喜と悲」という両極端への変化に翻弄された都市でもありました。そうした翻弄を水面に映し、その流れの中から人間の所業を見守り続けてきたのが、「川」、すなわちヴルタヴァ川(ドイツ語では「モルダウ川」)だったのです。
 19世紀チェコの国民的作曲家スメタナの交響詩『我が祖国』、その第2曲が有名な「ヴルタヴァ(モルダウ)」です。音楽の授業で出てきたか、合唱コンクールの課題曲だったか、とにかく日本語の歌詞で歌った覚えがあります。「懐かしい河の流れよ 我等の誇りモルダウは 遠い日も今も同じ 豊かな歌を乗せていく ざわめく嵐も幾度か 大らかな胸に抱きしめて 頼る者もすがる者も守る河……」。橋の欄干にもたれかかって川面を見つめながら口ずさんでいると、ふと「プラハの春」や「ビロード革命」という言葉が浮かんできて、民主化を求めて苦闘したチェコ国民の姿が偲ばれました。と同時に、今という刹那を生きる自分の目と悠久の歴史のうちに流れ続けるヴルタヴァ川の目とがほんの一瞬合ったような気がしました。川の目は慈愛に満ちつつも、深い憂いを漂わせているようでした。
 川。もうひとつの川から想い起されることを、今回は少しだけ語らなければなりません。
 室生犀星は、彼の詩集『抒情小曲集』に次の詩を収録しています。「うつくしき川は流れたり そのほとりに我は住みぬ 春は春、なつはなつの 花つける堤に坐りて こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ いまもその川のながれ 美しき微風ととも 蒼き波たたへたり」。この「うつくしき川」とは、犀星の故郷・金沢に流れる犀川のことで、詩の題名も「犀川」と付けられています。犀星は、生後複雑な事情があって養子に出され、幼少期を犀川ほとりにある雨宝院という寺に過ごしました。「金沢三文豪」のひとりである犀星には、他にも金沢を詠んだ有名な詩があります。同じく『抒情小曲集』に収録される「小景異情」の「その二」です。「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても 帰るところにあるまじや ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや」。東京へ出ていた犀星が疲れて一時金沢に戻ってきており、再び東京へと旅立つにあたって、二度と金沢を「逃げ場」にしないという覚悟で詠んだ詩です。
 金沢は、二つの川と、その川に挟まれた台地とからなる街です。二つの川のひとつは、広大かつ悠然と流れる、いわゆる「男川」の犀川、もうひとつは、情緒溢れ、穏やかに優しく流れる、いわゆる「女川」の浅野川です。台地は小立野台地と呼ばれ、その先端には兼六園と金沢城が位置します。これらは街の風景を彩るだけでなく、その時々に往来する人々の人生の舞台となってきました。
 我が友人O君は、学生時代は浅野川の近くに、社会人となってからは犀川の間近に住んでいました。美しい微風とともに蒼き波をたたえた川の流れを体感していたことでしょう。
 振り返ってみれば、学生時代の友人は何人もいますが、特に親しかったのが、A君、T君、それにO君で、私も合わせて(表現はともかく)「四人組」でした。彼らとは、学部は同じでも専攻は別で、住所も性格も異なりましたが、学生時代を通じて、共に階段教室最前列の「指定席」を陣取って聴講し、春夏秋冬という季節の移ろいの中で色鮮やかな美しさを見せつづける街を闊歩して大いに語り、「風土」が生み出す美味美酒に酔ったのでした。歴史と伝統文化の薫る金沢という「風土」。古くから学都とも称されたその街の「風土」に住まう人々は元来学生にやさしく、お国言葉で心温まる声援を送ってくれました。ありがたい限りです。それに何より、自分の人格や基本的なものの考え方の形成に決定的に影響を与えてくれた師(私にとっては特に基礎法学の先生方)より得た学恩はどこまでも深大で決して忘れることはできず、どれだけ感謝してもし足りません。しかし同様に、お互いに切磋琢磨する日々を共有させてくれた友人達にも御礼の言葉しかないのです。皆博学多識この上なく、また大変な読書家で、そんな彼らに私などはいつも大きな刺激を受け、触発されていました。実に学生らしい学生時代を送ることができたものです。彼らとの出会いは私にとって宝物に他ならないのです。
 そのO君が亡くなったことを知りました。実は、筆まめでマナーは徹底していたO君から2年連続で年賀状が送られてきませんでした。最初に送られてこなかった年にはT君が「電話してみようかな」と言いつつ結局電話せず、私もさして案じてはいませんでした。ところが2年続けてなので、今回もT君から「心配だ」というメールが送られてきて、さすがに私も心配になり、あちこちに電話してみたのでした。しかし、本人の携帯が「現在使われておりません」、ご実家にも電話してみたもののなかなかつながらないのです。途方に暮れていると、ある日O君のお父様から私に電話がかかってきました。ホッとしたのも束の間、お父様は言葉少なに事実を伝えてくれました。「昨年5月に亡くなりました。長い入院生活でした」。私はつい大きな声を出してしまい、驚きを隠せませんでした。心ここにあらず、気が動転する中どうにかお悔やみの言葉を申し上げるのが精一杯で、谷底に突き落とされたような心境のうちに電話を切りました。
 呆然として椅子に座り、静かに目を瞑ると、次々と溢れ出るようにO君との思い出が甦ってきました。学びの日々、あの時、この時……。細かく書いていたらキリがありません。共に社会人となり、家庭を持つようになってからも、様々な機会に存分に語り、食べ、飲んだものでした。かく瞑目して思い出に浸れば、時に口元がほころぶこともありましたが、やはり目が潤むのを禁じ得ません。
 T君も驚いていました。とにかくご遺族にはお悔やみを申し上げ、O君のご冥福を祈るばかりだ、と。ただ、こうも言っていました。「去年のあの時に電話していれば……」。この「後悔先に立たず」の心境は、私も全く同じだったのです。悔やまれるかな!
 何年か前にO君は私に電話をかけてきて、「今度名古屋へ行く。一緒にメシでもどうか」と言うので、こちらは「おう、喜んで」と当日の予定を組みました。その時にO君はこう言い添えました。「実は胃を全摘した。しばらく入院していたが大丈夫だ。医者からは特に何も言われていない」。事実、来名した彼は昼食にひつまぶし定食を平らげた上に、ビールジョッキを傾け、日本酒で盃を重ねたので、私には至って元気そうに見えました。名古屋城やトヨタ産業技術記念館を見学したのち、彼は「そろそろ帰る」と言うので、名駅まで送ろうとすると、「いや、そこの栄生駅で別れよう。いろいろありがとう」と答えました。私は「今度はオレがそっちへ行こう」と声をかけると、彼は笑いながら「ああ」と頷きました。そこで別れたのです。想像するにその後O君は再び入院し治療を受けることになったのでしょう。結果として、その甲斐なく、ご家族に最期を看取られたのだと思います。
 今にして思えば……!今にして思えばO君は、あの時自分の将来について何かを感じ取り、悟るところがあって私に会いに来たのかもしれません。それを呑気に酒を飲んで笑っていた自分が情けない。勿論、人と交流するに相手の「終期」を意識しながらなどということは滅多にないし、その点はT君も同じだったでしょう。それにしてもです!見舞いにも行けず、葬儀にも参列できず……。残念で残念で仕方ないのですが、あの時O君が自分の本当の病状を伏して会いに来てくれたのだとすれば、彼はその衰弱した姿を見せることなく、加賀金沢以来の思い出をひとり心の中に留めて旅立とうとしたのかもしれません。いや、それならなおのこと惜別の念止まず。「虚しい。実に虚しい」。これは彼が学生時代に時々口にしていた言葉でもあります。
 『平家物語』の諸行無常か、春の世の夢か、風の前の塵か。いや少し違う。鴨長明の『方丈記』だ。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとのみずにあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、又かくのごとし」。我々は川に浮かぶ泡か、はたまた朝顔の露か。どこの川とは言わずとも、川の流れをじっと見つめていると、その中では生成消滅の連続が繰り広げられているように見えてきます。消えいくものと残るもの、その残るものもまた消えていく。例外のない「この世の理(ことわり)」なのでしょう。「有為転変」と言い換えてもよいでしょうか。川の流れすら絶対的存在ではないはずです。すべてははかないのです。
 理屈はどうあれ、真につらく、寂しく、悲しい。川の流れは優美ではありますが、時に何と非情なことか。今回は正直そう思わざるを得ませんでした。
 お客様にご満足いただき、かつ後世に誇れる作品を自らの足跡として歴史の一隅に刻み込むこと。それはたとえ刹那を生きる者の「おこない」だとしても、必ず川の流れと、そこを流れ行くあらゆる事共に少なからず自らの存在(した事実)を伝えてくれるはずです。
 第69期もいよいよ最終コーナーへ入ります。人々は今だ大変困難な状況に置かれていますが、一条の光が差し込むことを期待しつつ、我々としては為すべきを為すにしかずです。今一度「ものづくりの仕事」に携わる者の本分を思い出し、「人事を尽くすべし」ということです。
 町中央公園のヤマザクラも待望の開花へ。朝日に照り輝くヤマザクラの花のように「より美しく」、なおかつ「より安全に」仕事に取り組んでいきましょう。ご安全に。

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