IWABEメッセージ
第59回「ティル・オイレンシュピーゲルの厄介な悩み」
実は深い意味があるとしても一見くだらない話が連続して、一度に読み進もうとするにはとてもつらく思えてくる本があります。『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』もそのひとつでしょう。
岩波文庫には阿部謹也氏による日本語訳(平成2年)があり、今でも入手可能です。14世紀のドイツに実在したと言われるオイレンシュピーゲルについて、元々は各地の庶民が伝承してきた数々の物語を、15~16世紀にヘルマン・ボーテが編著者として1冊の本「民衆本」にまとめた作品なのですが、この奇妙奇天烈な説話集のあらすじを、上述の阿部氏はその「解説」の中で簡潔にまとめています。即ち「……農民の子として生まれながら母親が希望する職人の道に進まず、いわば当時としては社会的上昇の正統なルートからはずれてしまったティルが、当時人々に賤しまれていた大道芸人や奇術師などの放浪者になり、ときに宮廷の道化として諸国の国王にいっぱいくわせたり、司祭や威張りくさった親方、学者、はては教皇までからかいの的とする奔放自在なその活躍……」が全96話を通じて痛快に描かれているというのです。オイレンシュピーゲルはドイツ中を放浪し、教会関係者、王侯貴族や有力者だけでなく、職人集団の親方や農民などを含む一般の市民までをも相手にして「いたずら」を仕掛け、その「いたずら」を理屈づけて正当化したり、「いたずら」そのものが露見する前に別の土地へと消え去っていきます。理屈と言うのは、例えば職人の親方が「あの家をごらん、高い窓があるだろう。あそこへ入ってくれ」と言って行き先の家の場所を教えたとすると、オイレンシュピーゲルは、その家の窓をぶち破って部屋内へ入って行ってしまい、しかもそんなことをした理由を問われると「親方に言われた通りのことをやったまででさあ」と悪びれずに答えるといった具合に、ひとつの言葉が複数の意味を持ち合わせるという特徴を上手く(ずる賢く)利用して組み立てられる「屁理屈」そのものです。加えて理屈に伴う行動は、時に下品低俗、時に残虐粗雑を極めています。一挙に読破しようとする気も起きなくなって当たり前でしょう。本書は、そんなオイレンシュピーゲルの遍歴集成、つまり出生から病死するまでの「放浪記」と称してよいのかもしれません。病死した時に埋葬された棺も手違いで横たえられず垂直に「安置」され、墓碑には「何人もこの石を動かすことなかれ ここにオイレンシュピーゲル葬られて『立つ』」と刻銘されたという風変わりさ。最後の最後、死んだ後までも、人々をおちょくり、嘲笑しているようで、ある意味真面目にふざけ切ったオイレンシュピーゲルの隠れた信念のようなものを垣間見た気もします。
この本を題材にして、19世紀にリヒャルト・シュトラウスが作曲した交響詩があります。曲名もずばり『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』。導入部は弦楽器による飄々とした旋律から始まります。テンポは自在に変化し、滑稽さすら覚える軽快な曲調と深刻重大な事態を想起させるそれとが見事なオーケストレーションによって交互に展開され、まるで目前で紙芝居が繰り広げられているような印象すら受けます。本の物語からすると少々壮大すぎて、迫力過剰にも感じられますが、その威風堂々とした「さま」にこそ、もしかしたらオイレンシュピーゲルの言動の本質が内包されているのかもしれません。リヒャルト・シュトラウスの作曲と言えば歌劇『ばらの騎士』が有名ですけれども、それならばオイレンシュピーゲルは、差し詰め「いたずらの奇士」といったところでしょうか。
さて、かく読み継がれ、聴かれ継がれている『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』が今の時代ではどのように位置づけられるのかについて少しだけ考えてみたいと思います。
先ずオイレンシュピーゲルの「いたずら」は、殊更大上段に振りかぶって「反体制」や「反権力」の表れなどと色分けされる代物とまではいかないでしょうし、身命を賭して徹底的に抵抗を試みる「政治行動」と言えばなおのこと言い過ぎになるでしょう。只々相手の貴賤を問わず、嘲り、小馬鹿にし、からかった挙句、風と共に去りぬを地で行っただけなのです。理屈と行動はともに極限までは至らず、ご愛嬌として済まされるレベルをちょいとばかり超える程度で相手をぎゃふんと言わせているのです。既存の権力や因習、既成の概念などに対して市井の人々が正面切って立ち向かえるようになるには、未だ機は熟していなかったのでしょう。思想的・理論的成熟も、庶民意識の成長も市民革命を惹起するまでには至っていなかったのではないでしょうか。そうした時代における庶民のささやかな、それでも精一杯の抗いこそが、「いたずら」です。世の中が一変せずとも、手を変え品を変え示された庶民の意地なのです。これをあげつらうことは野暮の極み、笑って済ますべし……。しかし、この意地の背景には、実は悲しみと怒り、それに諦めの心情が複雑に混淆してあるのです。それと庶民の心の奥底に燃え盛る生命の炎、しぶとく粘り強く振る舞い続けられる底力。これらは外部には放出し難く、同時に外部からは感知し難いものです。内包される心情、生命力、底力を源泉としてわずかばかり湧出する小さな現象「いたずら」の数々は、それでも権威を笠に着て居丈高な態度に出る連中からすれば子憎たらしく、威張られる方からすれば拍手喝采ものなのでしょう。
門外漢なのでよくはわかりませんが、中世ドイツが抱える社会構造の諸問題は、現代社会においても相変わらず散見されるようです。勿論、今の我々が意思表明する手段は多岐にわたっており、選挙権・被選挙権のみならず、様々な自由権を行使することが可能で、ツールとしてもアナログ、デジタルいずれも多種多彩です。大雑把に言えば、法的に広範な権利が保障されているということなのですが、同時にそうした権利の行使の仕方も多様化しており、それがまた度々多くの社会的対立、紛争、混乱を引き起こしているのも事実と言えます。しかしながら、それはともかくとして、現代においては、ちょっとした(オイレンシュピーゲルは時々度が過ぎることもありますが)「いたずら」すら、許される余地はほとんどなくなってきています。何をするにも無数のルールから成る網により規制がかけられており、しかもその網は年々拡張し続けています。網に囲まれた我々は、極端に言えば一切のミスが許されず、まるで機械と同様の働きを求められているようです。機械を使っているつもりが、機械の方が基準となり、機械に使われる……チャップリンの『モダン・タイムス』そのものです。完璧と無謬を規矩として人間を評価する世界です。
なるほど確かにミスがあるよりない方がよいでしょう。ただその見方が行き過ぎると、二者択一、オール・オア・ナッシングの判断によって善悪正邪の分類がなされるようになり、その分類を意識して人間の行動は極端な方向へ強引に引きずられるようになってしまいます。要は規矩どおりの行動を強制されるということです。ところが渦中の人間の大半は、そうした状態こそが「最も進んだ価値観や社会システム」に照らし合わせると実に素晴らしいものに他ならないと信じ込み、「人間機械化運動」に邁進してしまうのです、知らぬ間に大切な「人間性」を毀損しているという重大な間違いを犯していることに気付かずないで。無限に拡張し続けるルールとメカニズムに囲まれて、一切の誤差を許容しない社会の成立に現代人は加担しているのです。その社会では個人の権利や人格が尊重されているという幻想に取り憑かれているのでしょう。言うまでもなく、その幻想に取り憑かれた人々が本来的に目指しているところのものは理解できるところですが、その手法には大いに問題があります。自動車のハンドルにある「遊び」のようなアローアンス、対立する二つの価値の中間にあるもの、その曖昧さの中にこそ人間性は宿ります。それは、本人の思考や人間関係に不可欠な緩衝材の役割も担うに違いありません。複数の価値が存在し、その価値間の緩衝ゾーンがあって初めて豊かで多様な人間文化が生まれるというのに、それが解されない現況の息苦しさ。オイレンシュピーゲルの厄介な悩みとは、彼が現代社会に存在したら必ず感じざるを得ない、どうしようもない息苦しさのことなのです。
ここは法律的な技術論で彼を裁く場ではありません。重要なことは、人間の行動を定規で計測するのではなく、感覚的に知り、その行動のうちに潜む本当の心情、苦悩や悲喜、または宿業にまで思いを致しているかどうか、また、人間の持つ曖昧模糊とした部分や理屈で割り切れないところを安易に捨象せず、特に人間臭い重大な特質として認め、しっかりと受け止めているかどうかということなのです。これは大変難儀なことではありますし、人間のそうした部分を巡っては、ある種の争いや混迷が生じることもありますが、「人の生」をモノトーンから総天然色にして彩り、あらゆる事象に味わいと奥深さを添え(添えられ)、輝かしい感動を生む源泉は、まさにそこにこそあることを先ずは知るべきでしょう。知らねば人間性は色褪せる一方であろうと心配せざるを得ません。
オイレンシュピーゲルは、口では「なんてことありませんぜ」と強がりながら、自らの「いたずら」を全否定し、無価値の烙印を押して断罪する昨今の世の中に唖然として慨嘆することしきりでしょう。表面的で限局的な見方が跋扈し、内面まで見極めようとする努力が軽視されるような土地は、洒落のひとつも通用しない野暮の集積場に等しいと思って、オイレンシュピーゲルはこう語るでしょう。「なんとも面白味のかけらもない、まったくつまらねえ『楽園』ですな。早々に失敬しやす」。彼は苦笑しつつ、利口ぶった馬鹿が充満する街を痛罵して、どこへともなく消え去り、渡世を続けていくことでしょう。でも、これから先、オイレンシュピーゲルが心置きなく伸び伸びと「いたずら」できるような地が現れるでしょうか。嘆かわしい限りです。
仕事を進める上で大切な条件として、時間と心の「ゆとり」が挙げられます。どちらもギリギリ・ギスギスでは事故を招きます。自動車運転も同じことでしょう。交通安全のためには「右見て、左見て、もう一度右を見る」確認ができるだけの時間的・精神的「ゆとり」が必要です。また、周囲の自動車に対しても、自転車や歩行者に対しても、「お先にどうぞ」という心配りができるだけの「ゆとり」も求められるでしょう。
作業所であれオフィスであれ、事故やトラブル、ミスやロスを防ぐためには、こうした「ゆとり」と「思いやり」が必要です。このふたつを意識して、先ずは第69期の総仕上げに取り組んでいきましょう。ご安全に。