IWABEメッセージ
第60回「医、いのち、大地」
標高1,625m、青森県一の高さを誇る岩木山は、山頂から裾野に至るまでのシルエット、なだらかで美しい姿かたちから「津軽富士」とも称されています。円錐形の活火山が雪を被った様子は、まさに富士山のそれとよく似ています。地域の人々からは、親しみを込めて「おいわきさん」と呼ばれていますが、眼前に静かにそびえる高峰に何かしら神々しいものを感じて、自ずから日々の安寧を祈り、無事に感謝するという営みを繰り返すうちに生まれた言い方なのでしょう。山の麓には一面にリンゴ畑が広がり、「おいわきさん」とともに津軽の自然の素晴らしさと気高さを伝えてくれています。
その岩木山を臨む津軽地方の中心都市が弘前市です。弘前がいわゆる津軽藩の城下町として栄え、「ねぷたまつり」に代表される色とりどりの文化を今に伝える情趣溢れる街であることは、一度でもそこを訪れたことがある方ならばよくご存じのところだと思います。冬の厳しさは敢えて触れるまでもありませんが、春になれば、弘前城にある染井吉野、八重、枝垂れといった約三千本の桜が一斉に花開き、絢爛華麗な「桜絵巻」が繰り広げられます。その桜の時季が過ぎると、いよいよ可憐なリンゴの花が咲き始めます。まるで山桜のように花と葉が同時に開くとき、また秋の収穫への期待も大きく膨らむのです。リンゴの花は昭和46年に青森県の県花として指定されました。
大分前のこと、テレビで弘前大学の学生寮にて生活する学生達を取り扱ったドキュメンタリー番組を見たことがあります。卒業し社会へと旅立つ先輩達を寮から送り出す後輩達の姿。彼等は学生寮という場で相互に強い信頼関係を構築し、かけがえのない青春の日々を過ごしたと想像するに難くありません。それは、先輩後輩どちらの目にも流れる涙が証明しています。今はともかく、当時の国立大学の学生寮なんぞ古色蒼然としているのが通り相場で、逆にそうした環境に置かれていることを誇りとし、むしろ伸び伸びと、溌溂として勉学に励み、交友を深めたのではないでしょうか。この貴重な経験は、彼等の人生の糧となり、記憶に深く刻まれたはずです。何と輝かしく、麗しい学生時代だったことでしょう。涙のうちに盃を重ねる彼等の耳には、弘前大学の前身校のひとつ旧制弘前高等学校の寮歌が遠くこだまします。「都も遠し津軽野に あふるゝ生氣若人の 胸に希望の春は來て 高鳴る血潮紅に 咲くは理想の花の色 潜むや大鵬みちのおく」。潜み、出で、舞い、起つ……。弘前でしか出会えなかったもの、それは弘前の人々であり、弘前の文化であり、何より弘前という「大地」そのものでした。
今年の4月に脚本家の橋田寿賀子が亡くなりました。95歳でした。学校卒業後に入社した松竹を退職して独立、テレビドラマの脚本家として活躍するようになります。後年、脚本家として初の文化勲章を受章しました。橋田の作品は、「家族」を中心にして人間社会を描くスタイルで、夫婦、親子、嫁姑、近い親戚、遠い親戚等々が複雑に交錯するも、日常に起きる小さな問題や人生を左右するような大きな困難に直面した時に、それをどのように乗り越えていくのかを、視聴者の共感を得られるような台詞をもって精緻に表現しています。時に衝突し時に労り合う人々、利害や打算に振り回され嫉妬と怨念に明け暮れながらも、何かのきっかけでふと優しく愛情にあふれた真心を垣間見せる人々……。橋田の作品において、人の生死、愛憎と離合集散を描かずに済まされたものはないでしょう。それでも、その作品には「絶望」はありませんでした。どんなに小さくても必ず「希望」の光が仄かに見えていたのです。そうした橋田の数ある作品のうち、代表作としてよく挙げられるのは『おんな太閤記』、『おしん』、『おんなは一生懸命』、『渡る世間は鬼ばかり』なのですが、私はここで『いのち』を一番に推したいのです。
『いのち』は、昭和61年のNHK大河ドラマです。山崎豊子の『二つの祖国』を原作とする『山河燃ゆ』(昭和59年)、「オッペケペー節」で有名な川上音二郎・貞奴を主人公とした『春の波涛』(昭和60年)に続く近現代路線の三作目で、歴史上実在する人物が誰一人登場しない全くのフィクション作品だったにも拘らず、平均視聴率29.3%、最高視聴率36.7%を記録しました。春日太一著『大河ドラマの黄金時代』(令和3年 NHK出版)によれば、プロデューサーの澁谷康生は、自分達が生きてきた時代を扱う中で、物を求める時代が終焉を迎え、いよいよ心の時代が訪れたということを訴えたかったのですが、「現代史をテーマとして取り扱うことは難しい」と判断する上層部の説得には相当苦労したそうです。澁谷は、のちにNHK会長になる島桂次から睨まれて「お前みたいな若造と橋田さんで報道も扱いきれない現代史が扱えるのか」と言われたので、「扱えますよ!」と即答し、「面白くなるのか」との問いには、「面白くしますよ!この企画が通らないなら俺は辞める。やりますよ!」と啖呵を切りました。その結果、庶民目線で現代社会を描く大河ドラマという新しいスタイルが誕生した訳です。
ストーリーはこうです。終戦直後、東京の自宅を焼け出された高原未希・佐智姉妹は、実家のある弘前へ帰ります。高原家は大地主で、心優しい使用人の工藤清吉・イネ夫妻が姉妹を支えてくれるなか、母・千恵の病死を受けて、未希は人の命を救う医師になるべく女子医専に進学し、弘前で開業することになります(のち東京で開業)。父・正道はシベリア抑留中で、そんなさなかに農地改革が断行され、高原家は不在地主としてすべての土地を失ってしまいました。直後何とかシベリアから生還した正道は、看護婦となった次女の佐智が弘前医大(現弘前大学医学部)出身の医師・中川邦之(のち未希の医院を継ぐ)と結婚式を挙げたその夜に、妻・千恵の墓前で息を引き取るのでした。その後未希は、農地改革までは小作人だった岩田剛造の妻・初子を誤診して胎児とも亡くしてしまい自信喪失、単身渡米留学しますが、のち再び弘前に戻り、周囲が反対するも剛造と結婚します。ここから姑・テル(後年認知症になり未希に看取られる)や初子の娘・典子との長い確執が始まるのです。また、未希の友人で東京で実業家になった村中ハルは、集団就職して上京してきた津田征子を引き取り、高校・大学まで出して医師にさせましたが、自らは不治の病に侵され、故郷弘前の未希の実家で最期を迎えます。死を恐れるハルは、清吉夫妻から輪廻転生の話を聞き、安心して彼岸へ旅立ちました。征子は初子の息子・竜夫と結婚し、竜夫は東京の未希の医院の事務局を担当しました。しかし、竜夫は医療費不正請求事件に関与してしまいます。一方未希の夫・剛造は、未希が東京で医師を続けることを理解して応援し続けてきました。自らは長年のリンゴ栽培の功績が認められて農業賞を受賞するも、病に倒れ意識不明となってしまうのですが、剛造の長年の労苦を知る未希は延命治療を拒否します。娘の典子は激怒し未希を憎悪するものの、生前剛造が寄稿した雑誌記事に未希への深い愛情と心からの感謝が綴られていたことを知り、遂に未希と和解するのでした。その後、一時は農作業に勤しむ未希でしたが、人の命を救うことこそが使命と再認識し、離島の診療所へと向かうのでした……。このストーリーにはさらに多くの人々が登場して、主人公達を翻弄し、また温かく励ましてくれました。
『いのち』の主な舞台は弘前です。上述の『大河ドラマの黄金時代』によると、舞台となる場所を選ぶにふたり、「医学部のある大学と、地主と小作の身分差の大きい農村が共にある」ことと、「ロケーションや方言の魅力」もあることを条件としていたと言います。私はここに「医」と「生命(いのち)」と「大地」とからなるトライアングルを見た思いがします。
医は人の生命を救い、人は大地に生き、大地は人と医を育み、そのすべてを見守ります。もう少し言い添えると、先ず医は生命に向き合うに崇高な使命感を覚えるはずです。山崎豊子の『白い巨塔』では「医は算術」という揶揄した表現も出てきますけれども、傷病の治療を望む人からすれば、医は頼るもの、時に祈りの対象ですらあるでしょう。自らの人生そのものを預け、その生き方に共感を求めようと願うのです。まさしく医の役割は、半分が人生相談だと言われる訳です。人は論理と感情が混在する「考える葦」であり、単なる自然科学的観察対象でもなければ細胞の集積体でもないのです。それ故に、卓抜した医術に加えて、か弱き「考える葦」と向き合えるだけの人徳ある言動によって長く慕われ続ける医師こそ「名医」なのでしょう。そうした医に守られる生命を宿す人は、住まう大地に呼吸し、汗と涙を落とすうちに大地に還り、永く眠ることになります。その大地からは新たな生命が誕生し、その生命のひとつである医は他の生命の誕生と成育を助ける役割を担います。医と生命は寄り添いながら、悠久の自然である大地、文化文明の息づく大地に抱かれて営みを続け、明滅を繰り返す……このトライアングルは永遠の名の下に存立しているに違いありません。
有限の人生を日々必死になって送る人々と、その人々のひとりとして奮闘する医。二者間には、生死という最も重大な、誰にとっても不可避な宿命が横たわっています。どれだけ苦悶し、どれだけ号泣しても等しく万人が受け容れざるを得ない事実です。この宿命を巡って繰り広げられる悲喜劇を、大地はある時は微笑み、またある時は愁いをたたえながら静かに見つめているのです。と同時に、それらすべてを内へと包摂しつつも、人々自身がふと何事かを悟るのを待ち続けているようです。敢えて誤解を恐れずに言えば、医の崇高性も、生命の神秘性も、すべて大地を淵源とするのでしょう。こうした見方はある種宗教的なるものへの共鳴がなければ理解しにくいことなのかもしれません。
ここでの大地は弘前でした。弘前あっての医と生命でした。しかし、こうした大地は世界中の至る所にあります。夏川草介の『神様のカルテ』(小学館)ならば、信濃大学(信州大学)のある松本、山田貴敏の『Dr.コトー診療所』(同)ならば「古志木島」がそれでしょう。各人にとっての大地があるはずです。その大地に懸命に生き、ひたむきに歩もうとする人々の「いのち」の尊厳ときらめきを思う時、そこはかとない感動を覚えるのでした。それは大地への郷愁にもつながっているのでしょうか。
さて、今月は第69期末となります。何をするにも暗中模索、手探りの中で最善の方策を求めて日々苦闘する1年でした。先ずは本当にご苦労さまでしたと申し上げます。
まだしばらくの間この闘いは続きそうですし、来期第70期は一層厳しい状況になるという覚悟が必要となりますが、ここで改めて次のことを確認しましょう。仕事に近道なし。必ず基本を知り、それを実践する。その上で何が何でも安全を確保して仕事を完遂させる。新しい期を迎える前に、少しだけ立ち止まって心に刻み込んでください。
行く先に一筋の光明を期待して。来期も引き続きご安全に。