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第62回「道具と歩む」

 先日家で書き物をしていた時のこと、使っていたシャープペンシルに目を遣ると、ふと昔を思い出して感慨に耽ることがありました。その筆記用具は何の変哲もない安価なもので、機能的には全く問題ないものの、相当な年代物であるため、クリップの部分はかなり錆びてしまっています。記憶をたどると、恐らく高校生時分から使っている代物なので、購入後かれこれ40年ぐらいは経っているでしょう。ということは、高校での授業、定期試験、模試、大学入試、大学での講義、院試、演習、論文執筆、入社後の書類作成、資格試験等々、現在に至るまで様々な場面で使用してきたことになります。常に自分の手元にあり、右手に握られ、ここ一番の大勝負にも一緒に臨んだ訳です。
 このように長く使用してきた道具(道具としての「モノ」)は他にも色々あります。例えば、今会社で使っている電卓は、新入社員の頃に経理の先輩から「00キー」のあるものを持っていないと「とてもやってられないよ」と言われて買い求めたもので、これまた塗装が剥げかけてきているほどの年代物なのですが、そんなことはものともせず、あの計算この計算と大活躍中です。これまで何回激しくキーを叩き、計算作業を繰り返してきたことか。
 シャチハタのネーム印にしてもそうです。同じ頃に会社から支給されたものをつい最近まで使っていました。さすがにインクの出がうまくコントロールできなくなり、新しいものに買い替えたのですけれども、それでも古いネーム印は「万が一の緊急時用」として引き出しの中で静かに待機しています。今は「予備役」となっているこのネーム印を持って、これまで何回押印してきたことか。印影がかすれる度にインキ補充を繰り返し、書類確認を証するため自分の名字を印してきましたが、その書類枚数を思い返すだけで気が遠くなります。ここまでよくぞ働いてくれました。
 国語辞典や漢和辞典、それに英和辞典などの類も同じでしょう。小学校や中学校の入学時に買ったもの(または頂いたもの)でも、日常使いとしては十分役立ちますし、大いに頼りになっています。勿論、上の学校に進めば「それ用」の辞書を使わざるを得ないことは言うまでもありません。そうだとしても、「昔の版だから」とか「内容が簡単だから」などと言って安易に手放したりはできないのです。今でも「現役」として使用可能であるからというだけでなく、辞書の一頁一頁が手垢にまみれ、あちこちに赤鉛筆でラインが引かれた上に、細かな書き込みまで散見される「様子」、表紙がヨレヨレになり半分破れかけている「姿」に、まるで自分の人生そのものが投影されているような感覚を覚えるからなのです。手に取って頁をめくると、その音と感触からは、ちょっとした愛おしさすら感じられます。間違いなく現在でも自分には不可欠、なくてはならない辞書と言えるでしょう。
 長く使うということは、そのモノが日常生活における「伴走者」、つまり「相棒」と言えるほどの役割を果たしていることを意味します。事実、時間が経過すればするほど、そのモノは、ただの道具ではなくなり、単なる無機質な物体として片づけられることもなくなってきます。愛着が湧くのです。モノへの感情移入が生まれるのです。そこには、そのモノを擬人化して捉えようとする視点なり姿勢なりがはっきりと認められます。時に平凡な毎日の何でもないありふれた場面において、また時に人生で極めて重大な場面において、さり気なく登場し、自分をしっかりと支えてくれる「相棒」たち。それ故に、そんな「相棒」たちが、ふとした拍子に無くなってしまったり、故障してしまったり、場合によっては修復不能と判断されてしまったりすると、残念極まりなく感じられるだけでなく、この上なく悲しく、無性に寂しく思えて仕方なくなってしまうのです。
 そう言えば、長い間乗った愛車を致し方なく手放す時にも、そんな感傷の心が湧くものです。下取り業者の人が訪れて鍵を受け取り、淡々と事務処理を済ませて走り去っていくのですが、その別離の瞬間にはえも言われぬ寂寥感に襲われ、愛惜の念を強くするものでしょう。「一緒にあちらこちらへ行ったものだなあ。晴れの日、雨の日、早朝、深夜、舗装道、デコボコ道……。風を切って爽快に走り抜けてきた。そんな『相棒』はこれからどこへ行くのだろうか。どこの誰と次なるドライブへ向かうのだろうか。あたかもヘッドライトは涙目のように光り、テールライトは別れの挨拶をしているようだ。これまで本当にありがとう。さようなら」。このような思いは多くの方々によって共有されているものと想像できます。
 仕事の上の話ならば、用いられる道具と用いる人との間には、愛着によるだけでは説明できない、もっとシビアな紐帯があるでしょう。それは、仕事とか商いとかが本来的に持つ性質に由来するもので、常に厳しい「値踏みの市」に晒され、艱難辛苦に都度打ち勝って生き抜かなければならないという処世の現実が投影されていると言えます。「商売道具」は、その人自らが生きていくための術(すべ)であり、自らの心体の一部、まさしく「運命共同体」に他なりません。自らの心身や思考の状態は道具に直接影響し、道具のコンディションは自らの業績に如実に反映されるというものです。
元メジャーリーガーのイチローにはこんなエピソードがあります。かつてイチローは、地元のリトルリーグの少年達に「どうやったら野球が上手くなりますか」と質問されたことがありました。彼はその問いかけに対して技術論では返さず、「先ず道具を大切にしなさい」と答えたと言います。有名な話ですけれども、正鵠を射た名回答であると思います。
 生業のために不可欠な道具、自らの魂を成果物へと伝える道具、自身の「伝道者」の役割を担う道具を大切にできずして、良い結果、見事なゴールに到達する訳がありません。精魂が込められていない「見掛け倒し」の雑な「粗悪品」がご登場になるだけです。このようなことでは、クライアントに対しても、また成果物に対しても、もっと言えば道具そのものに対しても、全く失礼千万なことになりますし、何よりも、この愚行が自身の「仕事人気質」を著しく貶めてしまうことに気が付かなければならないでしょう。
 こう考えてくると、もはや道具は「ただの道具」では済まされません。モノを「単なるモノ」と短絡することもできません。そうではなくて、自らの想い、情念、理知、技量、体調、体力等々すべてを(まるで親身になって話を聞いてくれるように)受け止めてくれるとともに、それらを「カタチ」として外部で表現するために協働してくれる大事なパートナーであると捉えるべきです。つまりは「相棒」なのです。
少し遠回りしましたが、ここで再び道具(モノ)の擬人化の話に戻ることにしましょう。
 上述したように、「相棒」とも言えるモノが故障したり、それを紛失してしまったりすると、とても悲しくなりますし、たとえ使えなくなってしまったとしても、簡単に捨ててしまうことはできないものです。そうするには忍びないということです。たとえ二度と使うことはできなくとも、戦友を悼むように、身近なところにとっておくことになると思われます。故障していようがいまいが、そうしたモノが身近にあること自体が自分自身にとって大いなる安心につながります。身近にあって頼り、身近から見守ってくれるという空気感はとても重要で貴重なのです。また、もうおわかりのように、実はそのモノこそがこれまで自分と共に歩んできた時代と時間を象徴するもの(言い換えれば、人生の軌跡を想起させるもの)であり、我々が生活する今という瞬間が過去からの時間的連続の先に存立するものである以上、当然のことながら、様々なモノとの連関を安易に切り離すことなどできはしません。モノとの連関を断ち切ることは、自らの人格の一部を亡失、忘失、放棄してしまうことにもつながりかねず、そのような所業はできようはずがないことです。時の経過に伴って生じる愛着は、擬人化による感情移入の観点から説明しましたが、ここで言う愛着は浅薄なものではないことが徐々におわかりいただけてきたのではないでしょうか。これまで苦楽を共にしてきた「相棒」と別れることは、自らの身を裂くほど辛い。人とモノとは別個の存在でありながら、一体でもある。この状態を深厚と言わずして何と言うのでしょうか。人に人格があるように、あたかもモノにも(物格ではなく)人格があると感覚すればこそ成り立ち得る考え方でしょう。(昨今話題の「断捨離」問題は改めて。)
 モノに魂が宿る、という発想は東洋人特有なのか、(潜在的であれ)モノを愛する万人に通用するのかはよくわかりません。しかしながら、有機体だけでなく無機体にも魂が宿ると考えるところでは、モノの人格化がなされていることは明白です。こうした発想に至ればこそ、モノの本当の存在価値が認識できるようになるし、我々はあらゆるモノによって支えられながらどうにかこうにか日々生き続けることができているという「感謝の見方」を獲得できるような気がします。
 周りを見渡せば、あまたのモノ、道具、「相棒」が視界に入ってきます。それぞれがそれぞれの役目を果たしながら私を支え、声援を送ってくれています。忙しくて騒々しい普段の生活の中では、ついつい忘れがちになってしまうことなのですが、時折ふとモノからの視線に気づくことがあります。その瞬間、自分が忘れかけていた見方や視座にスポットライトが浴びせられるのです。光は無数の「相棒」とのつながりをも次々に照らし出します。「相棒」に対して、少し感傷の入り混じった複雑な気持ちを抱きつつも、「いつもありがとう」という素直な言葉を語りかける瞬間なのです。
錆びたシャープペンシル、インクがうまく出ないネーム印、キーの文字が薄らいできている電卓、破れかけて使いにくい辞書。手に取ってみれば、来し方行く末を思うとともに、伴走者の存在がとてもうれしく感じられてなりません。誠にささやかな、それでも自分ひとりの心の中ではとても大切な喜びなのです。
 さて、今期も8月で2カ月経ったことになります。昔から日本では、旧暦8月のことを「葉月」と称しており、今では新暦の8月のこともそう呼んでいます。黄葉の月だから葉月なのか、稲穂をはる月だから葉月なのか、その由来はよくわかりません。しかし、ひとつの季節の変わり目にあたることは確かでしょう。
 現実の気候は厳しい暑さが続き、台風への警戒も継続しなければなりません。各々の健康も仕事もコントロールしにくい状況が続きますが、皆さんがこれまで毎年の経験で得られてきたノウハウは、今年にも必ず役立つはずです。そうしたノウハウを最大限活かしつつ、先手先手の、念には念を入れた対策を心掛け、目前の困難をひとつひとつ乗り越えて、確実に次なるステージへと歩を進めていきましょう。
 止まらぬ時の流れの中にあっても、ひと呼吸入れることを忘れずに。ご安全に。

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