IWABEメッセージ
第64回「夢現」
『万葉集』「巻第三」にある歌「青丹吉寧楽乃京師者咲花乃薫如今盛有」(万葉仮名表記)は、大変有名な一首で、当時大宰少弐(だざいのしょうに)の役職にあった小野老朝臣(おののおゆのあそみ)が詠みました。斎藤茂吉著『万葉秀歌』(昭和13年 岩波書店)によれば、この歌が詠まれた頃の大宰帥(だざいのそち。大宰府長官)は、元号「令和」ゆかりの「梅花の宴」を催した大伴旅人(おおとものたびと)だったので、小野老は彼の部下であったのだろうと推測されています。「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」、つまり奈良の都は、まるで咲いている花が色鮮やかに美しく薫るように、今まさに繁栄しているのだ、という歌意です。「あをによし」は枕詞で「奈良」に掛かりますが、「あをに」自体は、奈良近辺で産出され、顔料等に用いられた「青土(あおに)」という岩緑青を意味するなどと言われています。
奈良は、日本国内における「古都の中の古都」です。しかも「大陸文化の風」を感じられる古都です。一口に「奈良」と言ってもエリアは広く、東大寺、興福寺、新薬師寺、唐招提寺、薬師寺などが建つ奈良市エリア、法隆寺などに代表される斑鳩エリア、古代遺跡ロマンに溢れる飛鳥エリア、千本桜で有名な吉野エリア等々、いわゆる「大和国(やまとのくに)」である奈良全域が歴史的魅力に満ち満ちた空間なのです。このことについては、既に本居宣長が著した吉野・飛鳥紀行録『菅笠日記』だけでなく、和辻哲郎『古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物誌』、小林秀雄「蘇我馬子の墓」などの数々の名文によって活写されているところです。
その奈良において、現存する世界最古の木造建築群と、仏像・絵画等の数々の国宝・重要文化財を有するのが、聖徳太子こと厩戸皇子創建の法隆寺です。あまりにも有名な寺院ですから多くを語る必要はないでしょうが、境内の大宝蔵院に安置されているある仏像について少し触れたいと思います。それは国宝「夢違観音(ゆめたがいかんのん)像」です。
夢違観音像は、高さ90cm弱の銅造立像で、白鳳期の仏像らしい優しい表情、柔らかで写実的なスタイル、大胆かつ繊細な宝冠・耳飾り・衣紋のデザインが特徴的です。この仏像の正式名は「聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)像」なのですが、何故聖観音が夢違観音と呼ばれているかと言えば、昔この仏像を拝んだ人が悪夢を吉夢に変えてもらったという伝承があるからとされます。特に古代の人々は夢を見ること自体を重視し、その夢の内容によって日常生活あり方を規定しようとしていました。悪夢なんぞ見ようものなら、祈祷までして災厄の現実化を回避しようとしたのです。それ故に夢違観音は、悪夢に悩む者を始め、多くの人々にとって大変にありがたい仏様として信仰されているのでしょう。
当然のこと、ここで言う「夢」とは、「実現を期待する理想や目標」という意味ではなく、「睡眠中にまるで現実であるかのように体験する心象状態」のことです。「夢想」という表現もできます。そこで突然ながら、今回はこの「夢(ゆめ)」と、夢から覚めた現実の状態である「現(うつつ)」について、色々と想い巡らして話を展開していくことにします。
これまで一度も夢を見たことがないという人もいるでしょうけれども、実は見ていても忘れてしまっているだけかもしれません。やはり、大半の人は、内容を覚えているかどうか、総天然色か白黒かは別にして、夢を見る経験をしているはずです。私自身よく夢を見る方で、しかも夢だからか奇妙奇天烈なストーリーが多い。例えばこうです。大人になった自分が小学校の教室で着席していて、周りを見回すと小学校から大学までの様々な知人友人が同じように座っている。いきなり扉が開いて先生が登場。開口一番「今からテストをやるぞ!」、児童一同「聞いてないよ~」、しかし無情にもテスト用紙は配布される。どうやら算数のテストのようだ。「始め!」の合図とともに解答開始……なのだが、難しくて全くわからない。とりあえず名前だけ記入する。だが、どう頭をひねっても解けない。一文字も書けない。それなのに周囲からは必死になって答案用紙に鉛筆を走らせる音が聞こえてくる。皆どんどん解答しているようだ。余計に焦る。困った、本当に困った!……とここで先生が大声で言い放つ。「もういいだろう。よし、終了。後ろから回収して」。いやはや0点確定だ、参った!念のため隣の子に「難しかったよねえ」などと恐る恐る確認してみると、その子は「難しかったよ」と答えてくれる。そうだよ、難しかったんだよ!かすかな希望を抱きながら、後席から回収されてきた何人分かの答案用紙をパラパラっと見てみる。何と、どの答案用紙にもしっかりと、びっしりと文字が書き込まれているではないか!もう駄目だ、絶望だ……ここでふと思う。あれ?自分は学校を卒業しているよな、じゃあテストで何点取ろうが関係ないよな、と。この瞬間に目が覚めるのです。
別の話。TVの討論番組を見ながら寝てしまった。現実の討論番組は自分の睡眠と並行して進んでいく。すると夢の中で自分も討論番組に参加するパネラーになっている。ところが発言しようと挙手しても一向に当ててもらえない。私は怒って「おい、司会者!さっきから手を挙げているのにどうして当ててくれないんだ!」と叫ぶが、全く無視されて討論は進行する。当然だ。私は、TV番組の音声を耳にしながら、ただ夢と現の間を行き来しているだけなのだから。ここで目が覚めました。(夢占いには特別の興味はありません。)
さて、人間の脳内記憶整理作業とも説明される夢そのものは、眠りの浅い時、つまり脳は活動し手足は休息している状態に見られるとされます。従って一層眠りが浅い状態で、かつ脳がイメージする非現実的な世界に恐怖や苦痛を覚えると、あの「金縛り」なる現象が生じるのでしょう。睡眠と覚醒の中間地点において身体が動かせない(動かない)のは「心霊」のせいだ、などとされる訳です。とにもかくにも我々は、夢現(ゆめうつつ)、すなわち夢と現実の境界がはっきりせず、意識が不明瞭でぼんやりした状態におかれる体験に遭遇するものです。
夢か現か幻か。目が覚めていると思っている今が夢の中なのか、夢ではなかろうかと感じている時こそが現実の真っ只中なのか。仮想現実は現実世界において体験されるものですが、実は現実と仮想現実と夢の境目は存外曖昧なものです。このことは、かつて「経験機械」という思考実験に関する論文にて提起された問題、つまり、いわゆる実在的価値と、その模倣である仮象的価値との間に優劣関係は認められるのかというとても難解な問題にまでつながるような印象を受けます。それでは、夢の中での言動と現実の中での言動とでは意義が異なるのでしょうか。夢の中での言動は、あくまでもその夢を見ている人個人の内心の話であって、その限りにおいては現実社会に何らの影響も及ぼさず、また現実社会からは何らの影響も受けるものではありません。他方、現実社会での言動は、個人の問題では収まらず他者へ影響を及ぼし、時に軋轢や社会的制裁を招くことすらあり得ます。しかしこうした対外的影響の有無とか内容の現実性とは関係なく、個人が様々な条件下で思念することに起因する事柄という一点においては、夢と現のどちらにおける言動も同じくそれに該当するはずで、この該当の下では、それらの言動の価値とか意味を論じる何らかの共通の物差しが存在するようにも思われます。夢と現を、「内」と「外」としても、全く無関係で別物として分断することはできないと感じられてならないのです。
夢の世界も現の世界も共に、ひとりの人間が生きる時空を構成しているのでしょう。夢を全然見ないほどの熟睡も魅力的であるとは言え、夢の世界の神秘、奇想、壮観は、その時空を、また人生を鮮やかに彩色するものです。現実世界をどうにか生きながらえている我々は、そうした夢の世界があってこそ、一応のところ、心の平衡を保てているのだと考えます。夢の中の情景は、本人の想念によって構成されています。とすれば、夢を見ているということは、自らの思考、いや紛れもなく自分自身に向き合って、その素の姿を見つめているということにもなるはずです。その意味でも、夢と現は一人格を基軸として把握される対象であると言えます。夢は自らの心象を正直に投影し、現は日々遭遇する事象に翻弄される自らの心身の有様を感覚させます。勿論、夢は覚め、現もいずれ終焉するものです。夢あっての現、現あっての夢、夢現あっての人生です。夢と現は、まるで表裏一体のコインのようでもあります。現の世界すら、もうひとつの大仕掛けな夢の世界に等しいとまで言っては当を得ないでしょうか。
我々は、この世知辛い現実社会の渦中でもがき、苦しみ、「夢であったら覚めてほしい」と願うほどの大変な困難に一度ならず直面します。同時にそのような困難を投射したような夢を見てうなされることすらあるでしょう。何にまれ、夢と現の両界に登場するのは自分以外の誰でもありません。どちらがホンモノの自分で、どちらがニセモノの自分だということではないのです。どちらに登場する自分もホンモノなのです。夢を見て笑うことも、怒ることも、泣くこともあります。その時現在の自分の心の奥底に潜む「真の思い」がそのまま露出したからでしょう。夢を通して現の深淵を見たのです。
以上のような話は、その道の専門家に言わせれば、素人の大雑把な空想、知識不足や勘違いのオンパレードであって一顧だに値しないと脇へ追いやられてしまうような代物かもしれません。確かにその通りでしょう。アマチュアのたわごと程度のものです。それでも事実として、自分は夢現の一本道を往来しながら、日々辛うじて生き、歩み続けていると自覚しているのです。
悪夢を吉夢に好転させたいという願いは、現実の世の中で直面する苦悶、煩悩、絶望を消し去ったり和らげたりして、不幸を幸福へ転じさせたいという願いが形を変えて表出したものでもあります。こう考えると、夢違観音は、悪夢を吉夢にするだけでなく、ひとりの人間の現実的な災禍と幸福をも優しく見つめながら、そっと救いの運命づけをしてくれる仏様ではないかと思えてきます。穏やかで慈愛に満ちたお顔からは、悠久の微笑とともに、凡俗の「あがき」への慈悲の心も感じ取れました。これはひょっとしたら自己反省から生じる感覚なのでしょうか。本当のところはよくわからないのです。
10月は、言わずと知れた当期第2四半期の初月となります。
仕事という「現の世界」は誠に厳しいもので、工程・品質・原価・安全のいずれの管理においても全く油断できず、緊張感を絶やすことはできません。自分の都合のよいように事が運ぶとも限りません。しかし、どんな状況下にあっても、結局は自分でよく考え、決断し、実行することから始めなければならないのです。「熟慮断行」という言葉もあります。後悔しないように徹底的に考え抜いたのならば、あとは前進するのみです。
我々皆の現実が上首尾となることを目指して、今日の一歩を刻みましょう。ご安全に。