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第66回「閉じれど光失わず」

 美浜緑苑の杉本美術館は、「絵に生きた画家 杉本健吉」を最終展として先頃閉館しました。約千坪の敷地に建つRC造2階建、6つの展示室を持つ美術館。昭和62年に開館して以来30年余の間、杉本健吉作品を通じて芸術文化を発信し続けてきた拠点が地域から無くなったのです。何とも惜しいことであり、閉館の理由はどうあれ、やるせなさを覚えずにはいられません。過去に何度か訪れたことがある私としても、もう一度しっかりと杉本作品を鑑賞しようと思い、最終展に足を運びました。駐車場は既に満車で、観覧客も多かったのは、それだけ美術館への惜別の情を抱く人がいたという証左なのでしょう。ゆっくりじっくりと、一作品一作品を目に焼き付けながら、館内歩を進めました。杉本作品の魅力は、じんわりと心に伝わってきました。
 洋画家の杉本健吉は、明治38年に名古屋で生まれました。旧制の愛知県立工業学校を卒業後、商業デザインを手掛けるグラフィックデザイナーとして活躍します。岸田劉生の門下となり、奈良では志賀直哉、入江泰吉などと交流しました。また、雑誌に連載された吉川英治の歴史小説『新・平家物語』や『私本太平記』の挿画を担当して大変な人気を博します。さらに大阪・四天王寺絵堂の障壁画「聖徳太子御絵伝」、名古屋能楽堂の鏡板「若松・老松」他数々の作品を描き、平成16年に99歳で亡くなるまで旺盛な創作意欲は衰えることがありませんでした。国内外の風景や人物を油彩、水彩、墨彩あらゆる技法を駆使して表現し続けたのです。
 杉本の描く絵については、志賀直哉がその本質を見事に見抜いており、同時にさらなる成長を期待していました。次々と作品を生み出す杉本の筆力と将来性には目を見張るものがあったのでしょう。杉本作品の多くは、簡略化されるも勢いのある筆致で描かれており、一見ラフスケッチのようにも見えますけれども、その抽象的な線描と絶妙な着色により、対象を見事に写実していると言えます。雑然の中の整然、大胆さの中の緻密さ、高尚さの中の親近感、これらが確実に伝わってくる作品なのです。勿論、杉本自身の性格的魅力も作品評価に影響しており、その点も押さえておかなければなりません。彼はとても明るく健康的で、気さくな人柄であったと言います。まるで「ご近所の絵描きさん」という印象で、美術館開館後は館内で制作活動に取り組み、来訪する一般の観覧客相手に談笑に興じることも多かったそうです。有名な大画伯として偉ぶることなどなかったことでしょう。それに、なまじ芸術愛好家(ツウ)ぶってご託宣を並べ立てる大尽連中などより、わざわざ美術館に足を運んでくれる「普通の人々」をこそ身近に感じ、市井に生きる人間の飾らぬ姿に最も魅力を覚えて、ささやかな交流のひと時を過ごしていたのではないでしょうか。時に粗削りでもグサリと突き刺さってくる率直な感想を聞くこともあったでしょうし、何気ない人々との会話の中に、また、何気ない人々の営みの中に、人生の本当の意味なり素晴らしさを看取していたのだと思います。
 吉川英治の『新・平家物語』は、源平の争乱が続く世の中、いや権力闘争や大小の諍いが絶えない時代に翻弄される様々な人々の姿を描き、愚かさと優しさを併せ持つ人間の生きざまを無常観と常住観を巧みに交錯させつつ丁寧に表現している長編作品です。その最終章「吉野雛」の場面は、武人ではなく、一般庶民である医師・阿部麻鳥とその妻・蓬子が、吉野の花見をしながら、これまでの人生について、また子供達について、それに本当の幸福についてを実に穏やかに語り合い、その話を少し離れたところで聞いていた息子・麻丸が感極まって声もなく泣きじゃくるさまが描写されて、感動の完結を迎えます。夫妻は、最初のうちは何も語らずただ桜花を愛でていました。恐らく奥千本あたりでしょうか。鎌倉開府に至るまでの戦乱の半世紀を生き抜いたのは、権力者達ではなく、無力な一組の夫婦でした。苦労ばかりでしたが、語らずともお互い理解し合える夫婦でした。お弁当を食べ終わり、鶯の鳴き声に気付いた時に麻鳥はこう言います。「何が人間の、幸福かといえば、つきつめたところ、まあこの辺が、人間のたどりつける、いちばんの幸福だろうよ。これなら人もゆるすし、神のとがめもあるわけはない。そして、たれにも望めることだから」。次いで、麻丸の将来を案じる蓬子に語りかけます。我々親の愛情が届いていなかったために勉強もせず放埓の限りを尽くした息子が、今では染物屋の職子として紺掻き作業をしているけれども、それをどうして世間に恥じるのか、何の引け目があろうか。「人おのおのの天分と、それの一生が世間で果たす、職やら使命の違いはどうにも是非がない。が、その職になり切っている者は、すべて立派だ。なんの、人間として変りがあろう」。大戦を経て、いよいよ新風の時代を迎える吉川の真情が窺える名場面です。
 戦乱の世においては、刀剣を振り、弓矢を引き、街に火を放ち、略奪強盗を繰り返すことが当然のこととされ、ためらうことなく人を殺め、傷つけ、人と人をつなぐ糸を無残にも断ち切る所業が無反省に肯定されます。故に、麻鳥・蓬子夫妻も、また吉川も、大きな戦争を体験した者として、平和の前には一切の虚飾や虚栄は、つまるところ何の意味もないのだ、平穏無事な世の中は理屈抜きで求められるのだ、ということを改めて確認し合ったのでしょう。考えてみれば(いや、考えずとも)、平穏無事、平生のうちにあればこそ、あれやこれやと理屈をこねくりまわしたり、勇ましい発言もできようものの、いざ戦乱の世が訪れたのならば、何はなくとも争いや諍いは止めてもらいたいと願うのが人情というものでしょう。人間が本当に感受性豊かに、安心して生産的な活動に従事し、文化・文明を発展させ、個々人の幸福追求と他者への温かい配慮をすることができるようになるためには、大前提として「平和状態」が必要とされます。それはあるいは、「戦争のない状態」と定義されるだけなのかもしれませんが、言い方はともかく、この状態を得ることは難しく失うことは易しいものです。しかも、その状態が当たり前になってくると、そのありがたさを忘れがちになってしまいます。平穏無事のうちに得られるささやかな幸せこそが最も価値あるものであるとしても、それをみすみす見逃してしまうのです。悲しいかな、結局、日常の当たり前のことは、それを失った後になって初めてその重大さを知る、という言葉に行き着いてしまいます。
 吉川は、終戦後一旦執筆活動を休止しました。戦争が終わり、形あるものだけでなく観念や思想に至るまですべてが灰燼に帰したと思われた時、とても新たな創作活動を始める気力も体力も残っていなかったことでしょう。そこで彼は人間社会を大所高所から、同時に最も卑近な所から、もう一度見つめ直したに違いありません。その時、何ごとかに気付いたのです。諸行無常、盛者必衰のことわりの中にあって、繰り返し繰り返し愚行を繰り返す人間、それでも生まれ落ちた時代で懸命に生きようとする人間、これをもう一度自分の筆で描き切ってみようという決意が彼の心中奥底に生まれたのだろうと考えます。連載7年。昭和32年、遂に『新・平家物語』は完結します。
 吉川は杉本を信頼し、杉本は吉川を尊敬していました。『新・平家物語』の「完結のことば」の中で、吉川は杉本について触れています。「わけて、挿画に杉本健吉氏の筆と人をえられたのは、思えば、よい女房を持ち当てたものです。ずいぶん、ムリや困らせもしたのに、いやな顔もした例しがありません。……もっと晩年にでもなったら、わたくしもこの人を、いちどは、吉野山の花見に連れて行かねばなりますまい」。杉本自身も、吉川に、また吉川作品に感じ入り、特に『新・平家物語』の麻鳥に、つまりは吉川の人間観に強い共感を覚えたのでした。「新・平家が私を離さないのは、私が麻鳥を離せないのに似ている」。杉本の率直な心持ちです。この心持が、元々杉本が抱いていた感覚と絶妙に一致したものなのか、はたまた吉川に触発されて得られたものなのかはよくわかりません。いずれにしても、麻鳥・蓬子が語り合うところの世のあり方を理想的に捉えていたと言えます。
 この視座なり考え方を持つひとりの画人から見れば、美術館を訪れてくれるひとりひとりもまた、麻鳥や蓬子であり、苦楽・悲喜・貧富からなる現世の激流に日々揉まれながらも、どうにか生活している市井の「民」であると感じていたのでしょう。当然、彼自身もその「民」のひとりです。杉本は、美術館の来訪者達と一緒に、まるで吉野の花見を楽しんでいるかのような心境だったはずです。苦悩し繁忙に追われる日常でも、ほんのひと時の安らぎと和みを得、心中に温かなものを覚える体験。完全なる善でもなければ、圧倒的な悪でもない、ただの弱い弱い「にんげん」との強い心の結びつき。遥か仰ぎ見る殿堂の奥の奥に鎮座まします「名画」を勿体ぶって見せつけるような場ではなく、もっと身近なところで、心を豊かにし、少しの笑みをもたらしてくれる描線と色彩の妙技を「にんげん」に見ていただく空間、それが杉本美術館でした。
 今後、杉本作品がどのように保管され、展示されることになるのか。いささか不安です。知らぬ間に吉川作品とともにフェードアウトしていくようなことになれば、これほど寂しことはありません。是非とも後世の人々にも作品の尽きせぬ光が届くように工夫してもらいたいものです。失ってはならない「値打ち」を失ってから気づくような愚は避けなければなりません。
 美術館から彼方に臨む伊勢湾はキラキラと輝いていました。周辺の美しい自然の景色も輝いて見えました。太陽だけが輝かせているのではありません。そこに生きる人と、人々と、その営みを決して忘れてはならないと思います。
 歳月人を待たず。月日の関所を素通りして時間は流れ、気づけば令和3年も終わろうとしています。当社第70期も半期経過を迎えます。
 社会的にも、また個々人の心身の面でも、抑制と束縛の網の中にあるような感覚に襲われ、伸び伸びと活動できない日々が続いた1年でした。しかも、次々と現れる大小の問題をひとつずつ解決し、乗り越えていかなければならない……この連続の渦中に置かれることは、とてもエネルギーを必要とする訳で、まさしく難行苦行と言えましょう。しかし、それに立ち向かえるのも、各人の強い使命感やバイタリティだけでなく、ご家族の皆様の心優しいご声援があったればこそのことなのです。皆様の普段からのお力添えに心より感謝申し上げます。今年もありがとうございました。
 来年は「壬寅(みずのえとら)」の年。事態が好転すべく諸事変化する中で、間違いない判断のもと一致協力して前進する年とされます。
 会社の役職員の皆様、ご家族の皆様、来年「壬寅」の年も何卒よろしくお願い申し上げます。よいお年を。ご安全に。

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