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第67回「発芽」

 何年も前のこと、「ならば読んでみよう」と題した一文をものしました。大学教養部の哲学の先生から、「社会人になると忙しくて、例えばトルストイの『アンナ・カレーニナ』などの長編作品はとても読んでいられない」と言われたことを受け、それならば敢えて長編を読んでみようと一念発起して『源氏物語』を読了した、という出だしでした。思い返せば、実際は社会人になってからも色々な長編物を読んではいるのですが、『アンナ・カレーニナ』とかつて言われたのに『源氏物語』を手に取ってしまったというのもおかしな話ではあります。その時はただ『源氏物語』に強い関心があったということにしておきましょう。さりながら、なお『アンナ・カレーニナ』は気になる小説であり続けたのです。
 それともう1作。高校時代の英語の先生が授業中に「私はパール・バックの『大地』が一番好きな作品だ」と仰ったことがありました。その頃は外国文学にさして興味がなかったので「ふうん」と思っただけで終わってしまいました。ところがこの『大地』も気になる小説であり続けたのです。
 どちらの先生の言葉も、私に何らかの印象を与えてくれたものの、それらの作品を読み始めるまでには至りませんでした。しかし、ずっと気にはなっていたのです。近づいては離れ、離れては近づく。忘れているようで、ふと思い出す。書店や図書館の棚に見つけるとつい手には取るものの、そういう時に限って海外小説への関心が薄れていたり、長編を敬遠しがちになっていたりして棚に戻してしまう。本当にタイミングが合わない。かく優柔不断な状況が続くこと約40年。それだけの歳月が流れてやっとのこと、そう、やっとのことこの歳になって『アンナ・カレーニナ』と『大地』を読み終えました。京都・永観堂の「阿弥陀如来立像」は、先導して行道する阿弥陀様が後ろで呆然と立ち尽くす僧・永観を見返り「永観、遅し」と仰られた様子を表現していますが、今まさしく先生方から「岩部、遅し」とお叱りを受けているに違いないと恐縮するばかりです。
 ここで少し考えてみると、そもそも誰でも、これまでに学校の先生だけでなく、古老や同世代の人々など多くの諸先輩から様々なことを教えられてきましたし、時に自分より年少の者にも何事かを気付かされることすらあったでしょう。人だけでなく、歴史なり風土なりからも多くを体感し体得するということもあるはずです。実にあらゆるところから教えを受け、知ってか知らぬか、いつの間にか自分自身が形作られていくのです。恐らく人生の終焉まで教えを受け続けるのでしょう。しかしながら、その教えを受ける過程で、自力で物事を考えられるように思えてくると、人は往々にして勘違いをするようになります。つまり、今現在の自分と自分の知識とそれに基づく考え方は、すべて自分ひとりの努力の積み重ねや体験蓄積を通じて主体的に得、アレンジしてきたものである、という勘違いです。まっさらな白紙に自分が自在に着色した結果、今のようなカラフルな模様を思う通りに作り上げてきたのだ、と。歴史や風土にしても自分達で改変して形を仕上げていくものであって、全くの「自由な」意志の発露、「自律的な」言動の所産に他ならないのだから、自分達でどうにでもできる、と。どれも勘違い、大いなる妄想です。
 どこの星の下に生まれるのか、これは自分では選べません。宿命です。そこには既に、細かに、かつ強固に構築された「価値観の体系」と「事実の体系」があり、故に我々は、それらの「体系」のうちに必然的に組み込まれることになります。その結果、皆その「体系」内で考え、動くことになるのです。ですから、『西遊記』の孫悟空よろしく、世界の中心にあって勝手気ままに振る舞っていると思ったとしても、実は如来様の手のひらの上であたふたしているに過ぎません。その事実に気付く、言い換えれば、無意識的に置かれた環境の中で自分の言動が自分以外の何ものかに規定されていることを意識し始める時が訪れることもあるでしょう。しかし、その時ですら、如来様の手のひらから出ることはできません。むしろ、その手のひらの上で、どれだけ個性的に振る舞うか、即ち、「体系」を踏まえ、「体系」を背負い、「体系」を自らの内にも宿す者として、どのように生き方を工夫するかを追求するのみなのです。その工夫にこそ本当の意味で自由が存在する余地があります。「その人自身」が鮮やかに発現し得るところは、それこそ人間的な光輝に満ちているのではないでしょうか。周囲にある一切のものから解き放たれた自分などというものは空想の産物です。自分の内にも外にも無数の紐帯が厳然として存在します。しかもこの紐帯は、個人を束縛するというよりも、むしろ個人を存在可能にする前提条件であり、まさに「命綱」に等しいものです。そう捉える方が現実的で「まとも」だと思います。
 先生の教えにしても、いや、何気ない発言ひとつにしても、児童・生徒や学生の心に大きく響き、深く刻まれるものです。それが時間を経て、様々な態様で、教え子の内において化学反応を起こし、言動という形を得て表面化します。先生の教えのなかで、うごめき、もがき、進化を模索する……。この渦中においてこそ、我々は、自分自身が数え切れないほどの教えから、また価値観や事実の「体系」を構成する無数の事柄から成り立っているということを知るべきです。同時に、それらの事柄を外からの影響として排除するのではなく、内への教示として素直に受け容れるべきであることは言うまでもありません。
 さて、以上のような考え方をさらに進めるならば、どうやら我々人間は、まるで多くの人々に様々な種類と量の種を蒔いているようだし、また逆に多くの人々から種を蒔かれているようである、という構図が見えてこないでしょうか。実は前者であれ後者であれ、意識的にそれがなされる場合だけでなく、無意識的になされる場合もあります。確かに、人に対して知らぬ間に影響を及ぼしたり、知らぬうちに人から影響を受けていることは山ほどあるものです。いずれにせよ、口伝や文書による言葉で、また現実の行動なり姿かたちなりを見せつける中で、こうした種まきは実際に行なわれているのでしょう。
 ここまでのまとめ。「種蒔きは言葉や言動・姿かたちを通して行なわれ、種を蒔く方も蒔かれる方もそれぞれに意識的な場合と無意識的な場合があるということを先ず踏まえなければならない」。この点を踏まえた上で、次に種を蒔かれる側に視点を移してみます。
 種蒔きされる側は、種蒔きそのものを、何の抵抗もなく受け容れることもあれば、妙に反発して拒否することもあれば、気付かぬうちに結果だけ受容したり、看過して種蒔きそのものとの接点を失ってしまうこともあるはずです。蒔かれた種を鳥がついばんでいってしまうようなことも、種が大雨で流されてしまうようなこともあるからです。ともあれ、どのような形であっても、蒔かれた種はいずれ芽を出します。かなり早期に芽を出す場合もあれば、何十年と経ってから、まさに忘れた頃になって芽を出す場合もあるでしょう。当然のこと、明確に企図して蒔かれた種ばかりではありません。特別にその人へ向けて発せられた訳でもないような思いがけぬ一言が心の内に刻み込まれ、思わぬ拍子に思わぬ形態で表に現れるようなケースもあり得ます。
 改めて人間は、時代や世代を超えて、また地域を越えて、相互に作用し触発し合いながら生きているのだ、と思い知らされます。「種蒔き」と表現されていることは、まさしく対他作用・触発という「影響」であり、その軽重深浅に関わらず、人々の人生を着色し、時に方向づけするものです。一口に「影響」と言っても多々ありますが、大体のところ発芽した時になって初めてその本当の意味を知ることになります。先生に教えられたことをしっかり覚えたつもりでも、その意義を「なるほど!」と膝を打って理解できるようになるためには、先ずは発芽がなければなりません。しかも発芽するには一定の時間が必要とされます。発芽の時を迎えて、ようやく遅ればせながら何事かを感付くに至る訳です。特に人生にとって素晴らしい教えを提供してくれた「種蒔き人」には、発芽が遅くなればなるほど、感謝の念は一層強くなるはずでしょう。
 遅くともよいし、勿論早くてもよい。心の内に発芽という事態を迎えることができれば、いつにしたところでこれほどの幸運はありません。いつ芽が出るかは種次第ですし、その人の涵養の仕方次第でもあるでしょう。とは言え、様々な偶然と必然が幾重にも重なった末に、可愛らしくも力強く姿を見せた芽がその先どのように育っていくかとなれば、これはもう、やはりその人本人の「あり方」次第ということになるのではないでしょうか。これは、人生の持ち時間限度内で、よくよく考え抜いておかなければならないことだと思います。陽に当てたり、水を遣ったり、気を配り続けたり……。ただ、同じくらいに忘れてならないことは、自分自身も他者にとって「種蒔き人」になっているということです。相手からどのような芽が出、それが成長していくことになるのだろうか。そう考えると「責任重大」の4文字が頭をよぎります。
 『大地』は、農民・王龍とその子孫ら三代を中心に描かれた大河小説です。大地こそすべての源泉であり、どんな困難に遭遇しても大地を守り、そこに種を蒔き続けるべし、という王龍の教えをないがしろにした挙句、贅沢と虚栄に溺れる者共がたどる悲劇と運命。教えを忘却し、宿命から目を背け、「体系」を否定する者の末路は推して知るべしです。今回の話と大きく重なります。こうした長編読書のきっかけとなった先生の教えの言葉には今更ながら「師恩」を強く感じざるを得ません。その教えを等閑視し、発芽を遅らせてしまった原因は偏に私の無能や無精にあります。まことに勿体ないことをしてきたものですが、ようやく今、現実に心のなかで、まばゆいばかりの光を放ち始めました。やはり発芽はあるのです。素晴らしい種を蒔いていただき、本当に感謝申し上げます。
 感謝。今年はもう一度「感謝」という言葉を思い出しながら過ごしていきたいものです。家庭でも、会社でも、社会でも。
 年は明けました。と言っても、令和3年と令和4年とが断絶している訳ではなく、ひとつの時間軸の上でずっとつながっており、その時間軸の至る所では「原因と結果」というイベントがエンドレスに発現しています。
 第70期後半戦スタートにあたり、原因となる自分の言動がどういう結果を招くのかについて、ほんのちょっとだけ立ち止まって考えてみましょう。基本から外れていないか、安易に妥協していないか……。日常の小さな判断が結果を大きく左右するのです。
 皆さんが精魂込めて築き上げてきた「努力と工夫の結晶」を一段と輝かせるためにも、日々種を蒔き、水を遣り、成長をじっと見守る目を持つとともに、今とこの先に心を配って仕事に取り組んでいきましょう。
 今年もよろしくお願い申し上げます。ご安全に。

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