IWABEメッセージ
第68回「駅弁旅情」
朝起きて、新聞に一通り目を通したあと、中に折り込まれている広告チラシを手に取ります。さらりとではありますが、1枚1枚見ていると、サイズの大小、カラーか単色かの違いはあっても、それぞれが限られたスペースの中で工夫の限りを尽くし、必死になって商品アピールしているさまには本当に驚かされます。新聞読者の目を引かなければならないのですから、それはそれは何度でも頭をひねり、口角泡飛ばす白熱した議論を繰り返してデザイン案の修正を重ね、なんとか掲載期日までにチラシの完成にこぎつけたのでしょう。それが今、私の目の前に届いており、そんな中のあるチラシの記事に目が留まりました。「本日と明日の2日間、『全国駅弁うまいもんフェア』を開催!」。何!駅弁フェアとな!目を凝らして記事の内容を詳しく見ていくと、北は北海道から南は九州・沖縄までの各県自慢の駅弁がずらりと並んでいるではないですか。最近では、空港で販売されている「空弁(そらべん)」や機内食をお弁当化した商品を扱う場合もあるそうです。いずれにしても、山海の珍味など地域特産の食材がふんだんに使用されていながら、なおかつ価格的にはお値打ち感が失われないように値段設定されており、小さな箱の中に地方地方の特色が見事に演出された逸品揃いであると言えます。絶品駅弁のオンパレードに、普通ならどれを買って食べようかと悩んでしまうこと必至です。当地に居ながらにして全国の駅弁を味わうことができるとは、なかなか便利な世の中になったものですけれども、そう悩んだり、感心してばかりいてはいけません。と言うのも、スーパーの駅弁企画は大人気で、早く買いに行かないと当日分の大半は午前中に売り切れてしまうこともあるからです。そういう訳で、急ぎスーパーへ出陣!
息を切らしてスーパーに到着。もう行列ができていますが、陳列台にはまだまだ沢山の商品が並んでいます。肉系、魚系、洋食系、和食系、寿司系等々。他の来店客達があれこれ悩んでいる隙を狙って、私はある駅弁のもとへ駆け寄ります。「まだあった!」。咄嗟に手に取って買い物カゴへ入れ、少しホッとするのでした。実は大抵の場合、私はどの駅弁にしようかと迷うことはありません。「お目当ての駅弁」があるからです。その「お目当ての駅弁」とは、福井にある番匠本店さんの「越前かにめし」です。紙包装の中に入った紅色の容器は越前ガニ(ズワイガニ)の姿が形取られており、そのフタを開けると、カニの身がびっしりと敷き詰められた光景を目にすることになります。しかも、その身の下には、雌のカニ(セイコガニ。または香箱ガニとも言う)の赤肉やらミソやらをほぐして炊き上げたご飯がしっかりと入っているのです。その色合いを見ただけでも美味しさが保証されているように感じられます。そこに付属の刻み海苔をかけて、これまた付属のスプーンで食します。瞬く間に口中にカニの風味が広がると、日本海の荒波と潮風が想起され、しばしささやかな愉悦感に浸ることができるのでした。昔、北陸方面へ向かう列車に乗る時には、福井に入ってからの車内販売で必ずこの「越前かにめし」を買って食べていました。残念ながら現在では車内販売そのものがなくなったので、北陸に出かけた際には帰りに駅で購入して車中で食するか、上述のような駅弁フェアで買い求めるかしかないというのが少々寂しいところではあります。(尤も通販という方法もあるようですが。)
駅弁が大人気なのは、郷土色豊か、リーズナブルな価格、多彩な味覚といったことだけが理由ではないと思われます。恐らく人々は、駅弁を通じて、心の中で旅行気分を味わっているのではないでしょうか。程度の差こそあれ、様々な事情で旅行に出かけにくい昨今、それでもどこかを旅してみたいという率直な欲求を誰もが抱いているに違いありません。日本中を旅したい、世界一周をしてみたい、いやもっと身近な温泉とか史跡巡りをしてみたいといった夢や希望を抱いたとて何の不思議があるでしょうか。話は駅弁でなくともよいのです。衣装でも、お菓子でも、国の内外を問わず、疑似旅行体験ができる「きっかけ」は沢山あるものです。テレビで放映される紀行番組、ラジオから流れるワールド・ミュージック、書籍で言えば紀行本、旅行ガイド……ありとあらゆる情報が旅の「きっかけ」として自分達の周りを取り囲んでくれているのに、その旅自体に出かけるのが困難というのはとても辛いものです。想像だけは膨らみます。各地の自然、文化財、都市や田舎で暮らす人々、個性に満ちた習俗……。今思い出すだけでも、例えばNHK『新日本紀行』テーマ曲(作曲・冨田勲)、同『小さな旅』テーマ曲(作曲・大野雄二)、TBS『兼高かおる世界の旅』テーマ曲(作曲・久石譲)などのメロディーを聞くと、また、FM『ジェット・ストリーム』テーマ曲「ミスター・ロンリー」とともに流れる城達也のナレーションが耳に入ってくると、無性に旅に出たくなってくるものです。歩きでも、車でも、鉄路でも、空路でも、手段はともかく、童謡『海』の歌詞「行ってみたいな よその国」の心境なのです。「よその国」は、海外、国内各地どこでもよし。何であれ、とにかく旅に出たい!
それにしても、どうしてこんなに旅に出たくなるのでしょうか。「あれを見てみたい」とか「それを食べてみたい」とかいう欲求、つまり「何々に触れてみたい」という欲求は、まさしく好奇心の発露であると言ってよいでしょう。普段では体験できない何事かに接したいと強く願う気持ち、即ち好奇心が旺盛だから旅に出かけるのだ、という説明は確かに可能で、ある意味当たっていると思います。しかし、もう少しだけ別の角度から捉えてもよいのではないでしょうか。つまり、旅に出たくなるのは、「非日常」を求めようとするからである、という考え方です。
我々が日々生活している「平生」の状態を「日常」と表現するのならば、それとは別の「非日常」へ興味関心が向いたり、時には「日常」を離れた位置に立ってみたいと願ったりすることは、ごく自然なことであると言えるでしょう。「人の常」という言葉に換えてよいのかもしれません。「日常」から離れにくい(逃れにくい)のが定めとすると、「非日常」への志向が、「日常」からの逃避なのか、「日常」における休息なのか、それとも本能的な衝動なのかは判別し難いところではありますが、とにもかくにも全くもって避けがたいものであることはもはや明々白々なところです。「日常」を離れ、「非日常」に触れ、それに感動する。誰もが得たがる体験です。
しかし、少し考えてみると、次のようなことに気付かないでしょうか。即ち、「非日常」を求め、これに感動するのは、当の本人が「日常」を持っているからに他ならない、という単純な事実にです。その人の内において、持つ「日常」と得られる「非日常」の対比がなされるからこそ、不思議な、また素敵な感動が生まれるという訳です。勿論、何らの対比のないところで、純粋に「非日常」そのものに(絶対的に)感動することはないのかという問いも出されましょうが、それに答えるだけの知見は持ち合わせていません。それでも、経験的に言えば、恐らく大半のケースにおいて、そうした対比が存在するところでこそ感動は成立し得るのです。当然その対比は、意識的なものもあれば、無意識的なものもあるでしょう。ですが、その人の感情とか思考を深く掘り下げ、細かく分解して見つめてみると、やはりそこには何らかの対比が見い出されることになるのだと思われます。対比の瞬間は、そこに現れる「差異」に心を動かされ、様々な欲求が満足されることになるでしょう。
さて、この感動と満足の先に初めて思い知ることがあります。「非日常」との接触にあたって「日常」との対比があり、その上で「非日常」への強い印象を抱くに至るのですが、同時に、人間の思考や感情の「うねり」は、まるで一旦押し寄せてきた波が逆方向へ引いていくように、改めて「日常」へと方角を定めて向かっていくのです。その動きは、「日常」がレビューされ、見つめ直される機会となります。「非日常」を求めて「日常」を知るということでしょうか。「非日常」体験の積み重ねが「日常」の輪郭と内実を浮かび上がらせてくれるということでしょうか。ただ、いずれの場合も先ず前提として「日常」があって、次いで「非日常」が対比され、その対比故に一層「日常」が際立ち、その意味を増すという順序があるのです。とすれば、「日常」をこそ先立って徹底的に極めれば、対する「非日常」もより鮮やかに映えるようになるはずだ、という見方も生まれてよいでしょう。
「非日常」に向き合った時に、まるで鏡の中の自分を見るような感覚に襲われて、ふと「日常」を思い出したり、「非日常」の中に「日常」を発見したり、さらには「日常」についてもう一度見つめ直してみたくなったりすると、そこには「郷愁」らしきものが生まれます。ノスタルジーです。どこかしみじみとした感覚、しんみりとした哀感、少し悲しく物寂しい趣き。旅では「旅愁」と言い換えてもよいでしょう。「日常」と「非日常」の間を往来するうちに、自分本来の立ち位置=故郷の「ありさま」と自らの「ありよう」に思いを致すのです。
人は必ず「日常」とつながっています。時間的にも空間的にもつながっています。しかも、今ここにおける「日常」は、今ここだけのものではありません。人は、いくつもの時代の、様々な地域において紡がれてきた「日常」の総体と複雑密接につながっているからです。我々にとって「非日常」が未知の世界と映るのならば、「日常」こそさらに奥深い未知の領域であるのかもしれません。けだし、前者の未知に挑むために後者の未知に踏み込む行為が旅支度、前者への接触が後者の内省を惹起することが旅の本質と言えましょう。
いやはや、難しい理屈よりも極めて明快なのは「かにめし」の旨さです。ちょっとの間あれこれ考えることをやめて、これを頬張ってみましょう。無心に咀嚼するうちに、旅景を思い描いて憧憬する、誰あろう「自分自身」に気付くのでした。やはりそうなのです。
令和4年も2カ月が経過しようとしています。まさに「光陰矢の如し」です。
時間の経過速度が速くなると、慌ただしさが増して、どうしても先のことが気になったり、目新しい他事に気を奪われがちになったりしてしまいます。言うまでもなく、将来に向けての計画や予定を立てることは大事です。将来展望もないまま「出たとこ勝負」「行き当たりばったり」ではいけません。しかし、日々目前にあるひとつひとつの仕事をきちんとこなさずしてどうして将来を語ることができましょうか。足許をしっかりと固めて、前方へ次の一歩を踏み出しましょう。
もうひとつ。その一歩を踏み出すにあたっては、多くの関係者がいるはずです。その人々としっかりコミュニケーションを取り、ベクトルを合わせることが不可欠です。一人合点は損失を生む元となります。皆の知恵と力を総合して、よりよい成果を挙げましょう。ご安全に。