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第72回「みほとけのおかお」

 真宗大谷派の順正寺(半田市)は、先頃本堂耐震改修工事と水盤舎新築工事を終え、「落慶法要(らっけいほうよう・竣工式)」を執り行ないました。木材調達・養生から3年という月日を要した工事は、社寺建築を専門とする熟練の大工さん達の地道で丁寧な作業の積み重ねにより無事完成を迎えることができたのです。経験と知識に裏打ちされた技は随所に活かされ、黙々と、しかも妥協を許さず作り込んでいこうとする彼らの姿勢には、時折寺を訪れて現場見学する度毎に、清々しさや爽やかさをすら感じるほどでした。ひたむきに働く姿というものは、どのような職場においてであれ、素直に感心される対象なのでしょう。
 一口に寺院建築の耐震補強と言っても、なかなかに難しさを伴ないます。永正10年(1513年)創建以来3代目となる本堂の風情・趣きを保ちつつ、基礎・柱・梁・壁に様々な技法を用いて耐震性能を向上させ、同時にまた「ユニバーサルデザイン」という現代的要請も満たすのです。床下や屋根裏など、あちらこちらを徹底的に調べ上げて現状を把握するのも大変ですが、何よりそこから本堂を「安心・安全・快適な祈りの場」にしなければならないとすれば、ご住職や門徒の皆さんと技術者集団とが、同一の使命感を共有することが絶対不可欠であったと言えます。水盤舎の新築にしても同じことです。
 さて、今回の諸工事と並行して実施されたのが、順正寺の御本尊である阿弥陀如来立像の修復事業でした。鎌倉時代の作とされ、現在では市指定文化財にもなっている御本尊は、時の流れと世の変遷を見つめ、多くの門徒達から信仰の眼差しを受け続けてきました。人々は生死の間に苦しみ、善悪の分かれ道に悩みながら、西方十万億土の彼方にある極楽浄土への往生を願い、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」と唱えるうちに仏縁を知ることになる……。「悪人正機説」という難解な言葉ではなく、6文字の名号、すなわち「南無阿弥陀仏」を繰り返し念じ、功徳を願う……。この心にて衆生が合掌してきた御本尊も、煤(すす)や埃(ほこり)が蓄積し、貼られていた金箔のかなりの部分は剥がれてしまったため、全体が黒ずんで見えていました。また何カ所かに後世の不十分な修理の跡が発見されたこともあり、全体としての修復は不可避の状態にあったのでした。「時代が付いてきた」と格好よく表現すれば、御本尊自体に歴史的な重みを加えるような気にはなりますけれども、これからも末永く祈りの対象であり続けるためには、このタイミングを逃さず徹底的に修復しなければならなかったのです。
 何分にもデリケートな作業ですので、仏師(仏像制作者)の手腕にお任せするしかありません。ご本尊全身を覆う煤と埃だけでなく、従前に塗られていた漆、貼られていた金箔を落とし、寄木造(よせぎづくり。後ほど説明します。)の仏体を解体、木材部分から復元を施した上で、改めて漆塗り、箔貼りを行ないます。全身に貼られた金箔は古色仕上げにて趣きを加えられ、これにより、ただ華美であるだけでなく、落ち着きと気品が備わります。台座は高さ調節も兼ねて鎌倉時代様式で新調、光背もきれいに修理されました。かくして、無量寿・無量光、すなわち「とこしえに光り輝く」阿弥陀如来様が、いよいよ再びそのお姿をお見せになる時が訪れたのです。
 落慶法要の前日のこと、修復に出されていた御本尊を本堂にお迎えする儀式「還座法要(かんざほうよう)」が営まれました。前もって仏師により運ばれてきていた御本尊が、本堂内陣の中心に安置され、僧侶の方々による読経の声も高らかに、皆で還座を祝ったのでした。見違えるほど美しく生まれ変わった御本尊。仏師の卓抜した技によって、往時の姿を再現することができました。そのおかおは全く新しい表情を伝えているようで、どこか懐かしい雰囲気を漂わせています。まさに扇における要の位置に御本尊が還座されて、ようやくこの度の事業は本当の意味で完結したのであろうと思われました。
 全国の神社仏閣巡りをしていると、宝物のような文化財に出会います。心惹かれるような仏像もそのひとつです。歴史・由緒、建物、庭園などと併せ、総体として仏像を鑑賞するのですが、これまでに出会った仏像の中で最も印象深かったのは、宇治にある平等院鳳凰堂の御本尊、阿弥陀如来坐像です。平安後期の天喜元年(1053年)に奉納された仏像で、名仏師と言われた定朝(じょうちょう)の傑作です。寄木造ですが、この寄木造という技法そのものも定朝が編み出したと言われています。乾漆像(かんしつぞう)、塑像(そぞう)、一木造(いちぼくづくり)の時代を経て生まれた寄木造とは、仏像をパーツ毎に分けて複数人で制作し、最後に一体にまとめる造り方で、仏像制作の需要が高まる時代には最適な合理的技法とされました。こちらの阿弥陀如来坐像は、高さ284cm、どこまでも穏やかで優しい面相からは、苦悩する民衆をしっかりと救ってくださるという印象が伝わってきます。全身には金箔が施され、胸板は薄く、なだらかな曲線を描く衣の柔らかな表現と相俟って、完成された優美さを観取することができます。また本像の頭上を覆う天蓋(てんがい)も、本像の光背(こうはい)も、いずれも細緻極まる彫刻となっており、これまたすべて金箔が施されています。阿弥陀如来というみほとけの存在を厳然と感じさせてくれるほどの威容は、鳳凰堂中堂内陣壁に懸けて並べられた、何十体にもわたる雲中供養菩薩(うんちゅうくようぼさつ)によってさらに高められ、それらの豊かで変化に富む表情や、時に楽器を奏でるさまを表す動的スタイル等々は、現世に来世を現出させるが如き演出に十分すぎるほど寄与しているでしょう。鳳凰堂中堂屋根には金銅製の鳳凰一対が置かれ、平等院全体に睨みを利かせているようですらあります。堂正面の池は極楽の池を想像させ、夜間照明されると、堂全体の姿がその池面に反射されるだけでなく、開け放たれた堂中央扉の奥に輝ける阿弥陀如来の尊像を拝むことができるのです。何とドラマチックな光景でしょう。圧巻の国宝群です。
 もともと平等院は、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と豪語した摂関政治の大立者・藤原道長(ふじわらのみちなが)の御殿・宇治殿(うじどの)を、その長子・頼道(よりみち)が寺院に改めたのが始まりです。当時は「末法(まっぽう)の世」、すなわち、仏法が衰滅し、混乱と騒擾の渦巻く世の中にあると考えられていました。確かに摂関・荘園政治は終焉を迎えつつあり、武士が台頭し始めた不安定な世情におののく貴族達は、せめて来世での平安をと祈願に全力を傾けた訳です。時の権力者、関白・藤原頼通にしたところで、莫大な資金を投入してでも、来世への期待につながるような立派な寺院を建立せずば、底知れぬ不安は少しも和らがなかったのでしょう。
 実は、来世を思うということは、現世をいかに生きるかということと表裏一体の関係にあります。いかに生きるかというよりも、いかに生かされているかということに気付かなければならないのでしょう。仏縁と功徳を感覚し、その力によって生かされている、もっと言えば、その力によって祈願へと導かれているという見方を知るのです。すべての行動は自発的・能動的であると同時に「他発的」・受動的でもある訳で、この二面性をひとつの人格のうちに併存させながら生きている(生かされている)という考え方は、とてもわかりにくいものです。上手く言い表せないのですけれども、この二面はどちらの面にも通約されず、むしろ双方の面が相互に反応し合って、ひとりの人間の在り方を形作っているのではないかと思います。言わば「自力と他力の平衡」を感知する、ということは相当難儀であるとしても、みほとけの教えなるものは、どうやらそこらあたりにあるような気がしてなりません。
 順正寺の御本尊であれ、平等院の御本尊であれ、みほとけのおかおを拝すると、次のように感じることがあります。つまり、みほとけは、人が辛く苦悩している時には慈悲深く微笑され、また人が油断したり慢心したりしている時には静かに怒り、叱咤されているようなのです。本当にみほとけが表情を変化させておられるのか、それとも気のせいで、自分自身がそう思い込んでいるだけなのか。もっと考えてみると、自分の心裡反射をみほとけのおかおに見ているのか、それともこうあってほしいという救い求めへの回答を必死で得ようとしている結果なのか、いやいや、そのように見ているのではなく、見えるように導かれているのか……。正直なところよくわかりませんが、やはり少なくともみほとけと自分との間に何らかの影響作用が不可視的に存在しているように感じられてなりません。自分の思う力とみほとけによる思わせる力との間に、上述の絶妙な平衡が保たれた瞬間に、みほとけは豊かで変化に富んだおかおをお見せになるのでしょう。双方が真剣に眼差しを交わせば、そこに救いの糸口が垣間見えるということでしょうか。
 科学と理屈の先行する現代社会では、仏壇や神棚に向かって祈ったり、遺影に語りかけたり、墓参りに行ったりする機会が減ってきていると言われます。人間が横着、ものぐさ、傲慢、不遜になったからでしょうか。日常生活において神仏に祈る意味が理解されないとすれば、何とも寂しく、残念なことと思わざるを得ません。
 神仏だけでなく、自分以外の「何ものか」を意識し、それに向き合うということは、単なる「ひとり問答」とは異なります。「何ものか」に問いかけることも、「何ものか」からその答えを聞くことも、さらに言えば自分とその「何ものか」との平衡や結びつきに思いを致すなどということも、何故にたかが一介の凡夫たる私ひとりの浅慮によってなせる業などと言えましょうか。
 還座された御本尊は、そんな凡夫すらも、静穏な時のうちに優しく見守ってくださるようです。
 第70期を終えるにあたり、先ずは皆さんに「ご苦労さまでした」と申し上げます。山あり谷ありの今期を、皆さんの強い責任感と溢れる情熱で乗り切ることができました。
 ご存知のように、来期第71期の闘いは厳しさを増すものと思われます。建設産業への向かい風は一層強くなることでしょう。そうした状況においては、身を低くしてどっかり構え、一歩一歩着実に前へと進まなければなりません。この一歩を慢心して軽視すると、強風に煽られ、吹き飛ばされてしまいます。
 何度でも言いますが、基本に則った「オーソドックス」な仕事の仕方を徹底的に追求していきましょう。この仕方を外さなければ、必ず目的地まで歩き着けるはずです。来期も皆さんの知識技量を遺憾なく発揮し、創意工夫を凝らして、正々堂々と職務に邁進していきましょう。
 暑さ厳しい折から、ご自愛専一のほどを。ご安全に。

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