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第76回「枕」

 清少納言の『枕草子』については、その有名な第一段を暗誦させられたものです。「春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて……」。春は夜明けの頃がいいなあ、夏は夜が趣あるなあ、秋は夕暮れ時がしみじみとするなあ、冬は厳寒の早朝に忙しく火を起こすなどして火桶を準備するさまにこそ季節らしさを感じるなあ……。清少納言個人の感想なのか、当時の宮廷人一般の感じ方なのか、どちらにしても、何となくではありますが、共感できるところは多々あります。この作品自体が随筆という形を取って「清少納言ワールド」を余すところなく網羅しているのみならず、「いとをかし」い事柄が満載されているが故に、現代人の多くからも強い興味関心が寄せられているのでしょう。
 書名の「枕草子」は、そもそも特定の著作を指すものではなく、一般名詞として使われていた言葉のようです。また、「草子」は、草紙、双紙、冊子とも表記され、巻物状の書物に対する冊子上の書物のことを言いました。それでは「枕」とはどういう意味なのか、ということになりますが、実はこれがはっきりとはわからないのです。『枕草子』最終段(あとがき)に次のようなストーリーが出てきます。
 ある時、内大臣の藤原伊周(ふじわらのこれちか)が帝(一条天皇)と中宮様(清少納言がお仕えする皇后・定子[ていし])それぞれに貴重な紙を献上されました。帝はその紙に中国の歴史書『史記』を書写するようお命じになられましたので、それを受け、中宮様は「こちらは何を書いたらよいか」と清少納言にお尋ねになりました。清少納言は「それなら枕でしょう」と申し上げました。そこで中宮様は「それではその方にあげましょう」と紙を清少納言に下賜されました。その紙に清少納言はあれやこれやと書き留め、それが人目に触れ、世に出回ることになってしまったのです。これが『枕草子』となったのでした。
 このストーリーからすると、『史記』を「敷布団」に見立て、それよりも上に位置するもの(より優れた作品)という意味で「枕」と言って洒落たようにも見えます。研究者の中にもそうした見解がありますし、それ以外にも、「枕詞」の「枕」ではないかとか、身近なところにあるものを取り扱っているので「枕」という語を用いたのではないかとか、話のネタ・文材という意味での「枕」ではないか等々、様々な見方があるようですが、どれが正解なのか、またそれらの見方の中に正解があるのかすらわかっていません。「枕」の謎とでも言えましょうか。
 以上を今回の「枕」としまして……その「枕」の話をしたいと思います。
 ここのところ朝起きると、どうにも首肩が凝っていけません。凝るだけでなく、それが原因で睡眠を途中で妨げてしまいます。「これは枕が合っていないに違いない」と思い、枕を買い替えようと決意しました。これまでにも、高反発、低反発、そば殻、羽毛、エトセトラと買い替えてはきたのですが、ここはひとつ「オーダーメイド枕」を作ってトドメを刺そうということで、専門店へと足を運んだのです。首の湾曲角度・深度などを細かく測定し、使用素材を十分吟味した上で作り上げられた枕。実に高い買い物になりました。故に期待は高まり、早速その晩から使用を開始。朝を迎えると……ダメだ!やはりダメだ!首肩は相変わらずガチガチだ!同じ悩みを抱え続ける方々と同様、「枕をたずねて三千里」の旅は終結しませんでした。あれだけ大枚はたいて購入しても「お蔵入り」決定です。残念無念。であるとしても、その晩の枕が必要です。仕方なしに近所の大型スーパーへ立ち寄り、枕のコーナーで何となく感触のよさそうなものを買ってきました。お値段は千数百円でした。ダメ元でその枕を使って、翌朝を迎えました。すると……いい!凝りも少なく、寝心地もよい!何で気付かなかったんだ、こんな近くに答えがあったことを!「灯台下暗し」とはよく言ったもの、青い鳥は他所ではなく頭上に飛んでいた!物の値打ちというものは、金額の多寡ではなく、その人本人が「よし」と認めるかどうかによって決められるという好例でした。
 枕だけでなく、着る物、食べる物、乗る物など何にでも当てはまることです。金にものを言わせて高価な物を入手したところで、それが本当に値打ちのある物なのか。自分が「よし」と思っているのだから他人に四の五の言われる筋合いはない、という考え方は確かに成り立ちますし、それは上述したところです。ただ、それには大前提があって、その人本人が値打ちを理解できるだけの知識、経験、分別を備えていることが求められます。従って、値打ちを知り、その値打ちある物に囲まれて人生を送ることができるとすれば、たとえそれが傍から見て清貧の様相を呈していたとしても、無思慮無分別の億万長者よりは余程豊かな暮らしを送っていると考えてよいはずです。
 ではどうやって物の値打ちとか真価を知ることができるのでしょうか。ここでは高度な哲学的議論を展開するつもりは毛頭ありません。むしろもっと卑近な話から、唯一ではないがほんの一例とは言える「仕方」について紹介することで筆を進めていきます。
 俳優の神山繁が文芸批評家の小林秀雄について触れた一文を読んだことがあります。骨董の道を通して、物事の本質を見極めることの難しさと大切さを小林から教えられたという思い出などが綴られていました。小林は、皿であれ、壺であれ、はたまた書画であれ、どんな骨董であっても「買ってみなけりゃ解らねえよ!」、「持ってしばらくつき合ってみろ!」、「手放して初めて自分の想いは何だったかが解るんだ、手放してみろ!」などと口癖のように語っていたと言います。神山に対する叱咤激励のようにも思われますが、小林自身も美術評論家の青山二郎にコテンパンに打ちのめされながら骨董の道の修練を重ねていきましたし、随筆家の白洲正子にしても小林や青山達のグループに加わる中で審美眼を磨いていったのでした。彼らの中で交わされる会話、産み出される知的成果物には珠玉の如き輝きが見て取れます。能書きや理屈ばかり垂れていたって何にもなりゃしないよ、先ずは自分の手に取るなり何なりして実行してみな、実行した以上自分で八方手を尽くして結果が得られるように苦しみもがいてみな……有言実行の継続ということでしょう。その上で、物であれ何であれ、形あるものであれ無いものであれ、それが自分の手元から、また自分自身から消失してしまった時に、そもそも自分はその「モノ・物・者」に対してどういう考えを抱き、どういう姿勢で向き合っていたのかがわかり、そこで改めてその値打ちや真価、重要性に気付くことができるようになるんだよ……そんな言葉が小林から発せられているような気がするとともに、「モノ・物・者」を個人・家族・集団・地域・祖国などと言い換えてみると文意に一層の深みが出てくるのを感じざるを得ません。
 最初の段階ではその対象の真価や重要性に気付いておらず、それを喪失してようやく覚るとすれば、まさに「後悔先に立たず」という強い悔悟の念を抱き、時に涙することすらあるでしょう。(元々気付いていたとすれば、自らの判断の正しさを改めて確認することになります。)形あるものは崩れ、生命あるものは死にゆく。喜怒哀楽や禍福は永続せず、予測不可能で不規則な転変を繰り返す。来る者は去り、行く者は戻らない。自発的に、任意に手放したり、壊したり、別離したりして、敢えて物事の真価を知ろうとする人もいる一方で、自発的ではなく、望まずして、時に強制的にそうした事態に直面しなければならない人もいます。むしろ後者の方が多いのかもしれません。不意に取り返しのつかない事が出来し、深い悔恨に沈みつつ、今更ながらに真価を知ることになるのでしょう。
 当然のこと、世界は一個人を中心軸としては回転していません。そうではなくて、我々が容易に知覚できないところにある大きな回転軸によって、我々が意識せぬうちに悠々と、また時にドラスティックに回り続けているのです。その回転する世界の中にあって、同時に固有の回転軸を持つものが無数に存在し、回転半径もスピードも方向もバラバラにスピンしています。無数の回転体のうちには、相互に衝突したり、次第に回転速度が遅くなって、回転が止まりかけると転倒して消滅していくものすらあり、他方で勢いよく回り始めた新たな回転体がどこからともなく登場するさまが見受けられます。遠ざかる回転体、消え去る回転体。数多の別離と消滅に翻弄され、また翻弄し合いながら、物事の真価や万物の正体を垣間見、時を同じくして自らの正体、本心、心根、即ち自分自身を客観視できる瞬間が得られるのかもしれません。自らの目前から「去りてのち 初めてわかる ありがたみ」。ありがたさ、漢字を使うと「有り難さ」。ほとんど稀にしか巡り会えないような人・物・事への感謝の気持ちを含意する表現です。万物との出会いが、まさに運命的であるとすれば、それを失わずして真価を知れたらベストです。いや少なくとも、もし失ってしまえば際限のない後悔に苛まれるほどの価値を、いずれの対象もが内包しているに違いないという「仮定」のもとに万事向き合っていかなければならないのでしょう。
 ここまで書いてきたことをなかなか実践できないのが人間の性(さが)。「わかっちゃいるけどやめられない」のも人間の性。その性を言い訳にして、特段の進歩も見せず、ひとつ所で足踏みし、同じ過ちを繰り返してしまうのも人間の性。その性から抜けられず、いつも無念の涙を浮かべて徒に時間を過ごし、まるで突然の如く終焉を迎えてしまうのもまた人間の性。人間が人間である以上、この性という大枠の外に出ることは難儀なのかもしれません。それでも、その枠の中にあってさえ、常に思考を止まらせることなく、対象の内に潜む真価、その真価を探し求める自分、対象と自分を包摂する世界への好奇心と探求心を持ち続けることにより、ほんの少しでも万物の光源に近寄り、出来得れば後悔することなく真価を覚知したいというのが枕辺で想う正直なところなのです。
 さて、今期も第2コーナーに突入しています。恐らくのところ、忙しく日々を過ごしているうちに、あっと言う間に半期が終わり、今年も終わり、今期も終わってしまうでしょう。もともと人の一生が短いものだとすれば、1ヵ月や半年なんぞもっと短いものだと言えます。短いとは言え、その中には山あり谷あり、暴風雨あり日照りあり、何かと苦労苦心することが多いのも事実です。
 しかし、仕事の上で様々な人に出会い、様々な事象に遭遇し、また様々な格闘を繰り返しながらコツコツと仕上げていくにしても、少なくとも後悔することのないようにしたいものです。すべてが終わり、すべてが去ってしまった後に気付くことも勿論あるでしょうが、心地よい感傷ならまだしも、「後の祭り」になるような事態だけは絶対に避けなければなりません。何故ならば、話は「仕事」についてだからです。
 安易に妥協せず、やれる限りのことをして、堂々と仕事を進めていくにしかず。これとて日常の基本のひとつです。
 そんな日常にあっても、先ずは健康を顧みて。ご安全に。

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