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第79回「水に濡れたお札」

 名古屋の円頓寺商店街を歩いてきました。地元の人ならともかく、「円頓寺」を「えんどうじ」と読むことは少しばかり難しいものです。周辺の地名である「那古野」にしても「なごの」と読みますが、それを「なごや」と読んでしまう人も意外に多いのかもしれません。もっとも、市内にある「那古野神社」は「なごやじんじゃ」と言うのです。全くもって、地名や人名など、あらゆるものの名称の読み方というのは、様々な由縁、経緯、事情によって定まっており、それ故にとても複雑ではあるのですけれども、その読み方を正しく踏まえ、それに従うということは、読み方自体の原因・理由とされるところの由縁等への、さらに言えば、先人の営為、すなわち歴史そのものを敬う謙虚な姿勢の表れなのでしょう。
 円頓寺商店街は、まさしく那古野エリアに位置し、堀川の五条橋を起点に名古屋市道江川線まで東西に延びています。そのさらに西へ向かって、円頓寺本町商店街、西円頓寺商店街と続き、最西端は名駅近くにまで至ります。大都会の中心に存在する市内最古の商店街として有名ですが、なかなか足を運ぶ機会が少なかったことも事実でした。その意味でも、独特の風情(時に哀感)の漂う「通り」をゆっくり歩いてみるということも、休日のささやかな楽しみに感じられたのです。
 名古屋には有名な大須商店街があります。大変賑やかなアーケード商店街で、いつも多くの人出で混雑しています。商店街の中心には大須観音、正式名称「北野山 真福寺 宝生院」、真言宗智山派別格本山の寺院が建っています。現存する最古の『古事記』写本「真福寺本」他多数の古文書類を蔵する「真福寺文庫」でも有名です。要するに、大須商店街は大須観音の門前町にあるということで、これは円頓寺商店街にも当てはまることなのです。第一、名前からして「円頓寺」商店街なのですから、円頓寺というお寺の門前町に展開する商店街だということは誰にでも想像の付くところでしょう。
 円頓寺。正式には「長久山 圓頓寺」、日蓮宗の寺院です。火災による消失や再建・移転を繰り返して現在に至ります。商店街を西へと向かえば右手に見ることができます。境内に入って参拝、合掌して往時を偲んでいると、ふと「門前市を成す」という言葉を思い出しました。今では「有力者や有名店の前を訪れる人が絶え間ない様子」を表すこの言葉も、元々は、地域における信仰の中心である寺院に多くの信者が集い、民家や商店が増えて町が形成されていく中で、各人各様の「たつき」で生を営む人々が寄り添い、頻繁に交流するさまを表現していたのではないかと思います。圓頓寺は、歴史の荒波に翻弄される市井の民草とともに、世の浮沈と正面から対峙して生き抜いてきたのであり、今も地域とともに在るのです。
 五条橋の近くには、江戸時代に「清州越」で当地へ移転してきた商人達がその豪壮な家屋や蔵を建て連ねた「四間道(しけみち)」があり、江戸町民文化の一端を今でも垣間見ることができます。商業上の利便性や防災の観点から、道路幅を四間(7メートル強)に定めて整備したので「四間道」と言うそうですが、これこそ「しけみち」と読める人はそうそう居ないでしょう。そんなことを考えながら、町家の景観を眺めつつ、商店街を西へと向かって歩いていきます。通りは歩行者専用となっていたので安心して散策できましたし、またアーケード商店街ですから、天候に左右されずに歩けることが利点なのですが、その分自然の太陽光が直接降り注ぐことがないので、何とはなく薄暗さを感じてしまうのは仕方のないところでしょうか。まあ、それも「味」と言えば言えるのでしょう。そうだとしても、大須商店街や、先日訪れた仙台や熊本のアーケード商店街などと比較すると、やはり人通りの少なさが気になります。見方によれば、「人混みに煩わされることなく、ゆっくり、ゆったりと歩いていける」とか「のんびり、気ままに、楽な気持ちで見て回れる」などといったことになるのでしょう。ただ、そうは言っても、閑散とした静けさと年季の入った古い建物が際立ち、たとえ味わい深い風情を醸し出しているにせよ、商店街としての「勢い」は総じて静止状態にあるように見受けられました。これが率直な感想です。
 しかしながら、ここで同時に言及しなければならないのは、一見して静止状態にあるかに見える商店街のあちらこちらで、将来を見据えて挑戦的な試みを仕掛ける「商い」の「芽」が生え始めているという事実です。「芽」は小さくとも若々しく、力強さすら内包しています。歴史的・伝統的ではあっても残念ながら衰微していってしまうかに思われる空間にあればこそ、ささやかであれ、奇抜であれ、斬新な挑戦は一層鮮烈に光って目に留まるのでしょう。こうして考えてくると、「静止状態」という言い方は不適切だったのかもしれません。連綿と続く時間軸に沿って時は流れ、世は遷移しますが、その途中で、ある種の転換点を迎えて一旦減速、静止したかに見えて、実は新しい方向へと転針して再び徐に動き出そうとしている状態……こう捉えるべきだったのです。確かに気になる「芽」を散見しましたし、商店街全体としても時々ユニークなイベントを企画しているらしく、それもまた発芽のひとつであると言えます。
 気候もよく、ちょっとした散歩をしているうちに喉も渇いたので、通りにある喫茶店に立ち寄りました。古民家再生なのか、昔の商店らしく間口が狭くて奥行きが深いため、外から見たよりは存外広く感じられる店内でした。コーヒーの香りが漂う中、空いている席に座り、少しホッとしながらメニューを眺めつつ、店員さんがやって来るのを待ちます。店内のお客さん達は、それぞれに飲み物や食べ物を口にしながら、談笑したり、本を読んだり、スマホを見たりして寛いでいましたが、他方で店員さん達はとても忙しそうで、コーヒーを淹れたり、給仕したり、洗い物をしたり、レジに向かったりと、ひとり何役もこなしているようでした。ようやくにしてオーダーを取りに来たので、ホットコーヒーと甘味を頼みました。出された御冷を少しだけ飲み、しばし先程までの散策を振り返るなどして時を過ごしました。
 時計の長針が軌跡を描くうちに、お店自慢のコーヒーを飲み、甘味も食べ終わりましたので、伝票を手にして席を立ち、レジへと歩いていきました。ところが、財布を広げてお金を用意しているのに、なかなか店員さんが来てくれません。やっとのこと気付いたのか、小走りにレジの前に立った店員さんにお金を渡しました。運悪く大きな紙幣しか持ち合わせていませんでしたので、お釣りは紙幣何枚かと小銭で返ってきました。店員さんの「ありがとうございました」との挨拶を受けるのと同時にお釣りを財布へ入れようとしたその時、あることに気付きました。お札も小銭も水に濡れていたのです。恐らく、その店員さんは皿やカップの洗い物をしていたところ、レジで会計を待つ私に気付き、しかも他の店員仲間が皆手一杯である様子を見て、手も拭かずに急いでレジまでやってきて紙幣などを扱ったために、それを濡らしてしまったに違いありません。容易にわかるところです。
 このような場合、皆さんならばどのように思い、どのような反応をしますか。「その時の気分次第」ですか。その通りかもしれません。私自身、その日はリラックスしていたからなのか、「あれ?水で濡れているな」とは一瞬思いましたが、何故かそれほど不快にもならず、腹の立つようなことにもならなかったのです。その理由は、単に私がリラックス・モードだったからというだけではありませんでした。喫茶店に入ってから会計を済ませるまでの間に、店員さん達の働きぶりを目にしていたからでもあるのです。
 一定の店員数で客対応できるキャパシティはそもそも限られていますので、店内の混み具合によっては接客に遅れや不手際が生じかねません。しかも今どき、いい加減だ、適当だ、手抜きだ、雑だなどと非難や批判をする人が出てきてもおかしくはない世の中ではあります。しかし片方で、一所懸命、必死になって、力の限りを尽くし、誠心誠意仕事に取り組もうとする真摯な姿勢、また、わずか数人の店員ながらお互いに足らざるところを補い合う見事な連係プレーやチームワークを見れば、少々のマイナス要因や減点事由も咎め立てするほどには感じられなくなることもあるはずです。「ひたむきさ」が否定的事象をやわらげ、補ってくれる……ということは、肯定的に捉えられるようにする一定の効果を持ち合わせているということなのでしょう。勿論のこと、悪意なく、無我夢中になって物事に対峙すれば一切の問題がなくなる訳でもないですし、すべてが赦免される訳でもありません。さりながら、上述のような「ひたむきさ」があるところでは、それらの問題は将来の成長への糧となる余地があります。さらなるステップ・アップを大いに期待し得るのです。「懸命さ」と「ひたむきさ」を伴ない、より高きところへと向かう秘めたる力。それ故にこそ、時に不手際をすら微笑ましく受け止められるのでしょう。
 何事かに一途に向き合っている時の汗も、涙も、汚れも、あるいはまた吐息に曇る眼鏡も、それらすべてが、物事に向き合う姿の本質や実体を端的に説明してくれています。この本質や実体に触れる機会に巡り会うことができれば、多くの事象を首肯して受け容れられるのかもしれません。ひとつの物事に全力で取り組む姿の輝き。その輝きによって自分の心の暗部が一瞬照らされたような気がしました。ただただ感心し、心中「よし」と頷いて、静かに店を去ったのでした。
 しばらくのち、買い物のため再び財布を広げてみると、先ほどのお札は何事もなかったかのように乾いていました。少しうれしくなって休日の午後の散策を続けたのでした。好天に恵まれた、本当に素晴らしい小半日でした。
 令和の御世も5年目となります。
 先ずは新年を迎えられたことを素直に喜び、また寿ぎたいと思います。
 今世界は、疾病、戦争、経済的混乱などに見舞われ、協調から分裂へ、利他から利己へと比重が移り、なおかつ多様性を重んじようとしながら、実は全体的な単一性を強要しようとしています。各国各人が己の「正当性」を主張して過誤を認めず、結局総体としては全くチグハグで整合性の取れない、向かうところてんでんばらばらな状態が現出してしまっているのです。実のところ誰もが右往左往しているのが昨今の世の中であると言えましょう。
 こうした混沌とした時代にあっても、我を見失わず前へと歩を進めるためには、改めて建設工事請負人の本分を認識しなければなりません。それはすなわち、安全のうちに、お客様の望む品質の建設物を、期日までに完成させてお引き渡しし、適正な対価を得るということです。ここにおいて、甘えや妥協を許さず、かつ「ひたむきさ」をもって臨めば、それは必ずお客様に伝わり、結果お客様から信用と信頼が得られるものと信じます。後で悔いることのないよう、さらに後世に恥じることのないよう、プライドを持って、ひとつひとつ、1日1日の仕事を仕上げていきましょう。
 本年も何卒よろしくお願い申し上げます。ご安全に。

岩部建設株式会社 〒470-2345 愛知県知多郡武豊町字西門74番地 TEL 0569-72-1151

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