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第86回「散歩のついで」
久々に続けて音楽会に行ってきました。ひとつは五嶋みどりのコンサート、もうひとつはヒラリー・ハーンのリサイタルです。2人とも世界屈指の名ヴァイオリニストであることに異論はないでしょう。五嶋は、シューマン「ヴァイオリン協奏曲」をクリストフ・エッシェンバッハ指揮のベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団とともに、またハーンは、ベートーヴェン「ヴァイオリン・ソナタ第9番『クロイツェル』&第10番」をアンドレス・ヘフリガーのピアノとともに演奏しました。力強く、時にたおやかに、全身に満ち溢れるエネルギーと情熱を一心に弦楽器へと注ぎ込むその姿は、コンサートホール中に放出される音響に併せて、満座の聴衆を圧倒し、誰もが愉悦と陶酔に浸りきったのでした。当然のこと奏者は激しく体力を消耗しているに違いないのですが、私などからすれば、どれだけ弾いてもずっと弾き続けられる「永久機関」を目の前にする心境すらしたものです。
ただ、私個人的ながら、少しばかり面妖なことが起きたのです。それはヒラリー・ハーンが演奏中のこと、ふと自分の頭の働き、つまり思考がフワフワと遊泳するような気がしたのでした。思考は一点にじっととどまることなく、まるで波に揺られて彼方此方へ漂っていくような感覚なのです。思考というか思索というか、そういった類の内容が次々に変化(へんげ)していくとでも言ったらよいのでしょうか、それはもう取り留めもなく、不随意的に変化していくのです。別に音楽を聴いているうちに眠たくなってしまっていた訳ではありません。しっかりとハーンの演奏は聴いていましたし、アンコール曲演奏も含め、彼女の精緻な技巧と躍動感溢れる表現力には十二分に感動を覚えました。心から拍手も送りました。名演奏に触れる素晴らしい体験ができた好運に感謝もしました。しかし、音楽の調べに不覚にも誘われたのか、自身の思考はいくつもの異なる世界を訪れていたのです。
ご批判もありましょう。「思索に耽りつつ音楽を聴くなどという器用な『ながら鑑賞』ができるのか」、「単なる集中力の欠如、奏者への無礼、音楽への愚弄ではないか」等々。ですが、どれだけ批判されようとも、現実に音楽鑑賞と思考漂流が両立していたのですから仕方ありません。まさしく名演奏が招き、招かれた自身は異空間か異次元へと移っていったようなものなのです。特にどこの空間へ向かおうとか、特別に何を考えようとか、前もって何かを定めておこうとかした訳ではなく、全く気ままに、そぞろにあれこれ思い考える状態になっていたのです。心地よい音楽に包まれていたことが誘因なのでしょうが、心身には全然負荷を感じず、只々自由に思考し、流れる時間を楽しんでいたのでした。
待てよ、とここで気付きました。他でもこれと似たような体験をしたことがあったし、今でも時折体験しているのではないか、と。そう、それはまさしく「散歩」なのです。あの音楽会の時の感覚は、散歩している時に得られるそれと同じようなものだと気付いたのです。
散歩の元々の動機は色々で、健康のためとか、景色を楽しむためとか、ただ何となく歩くだけとか、それはもう人それぞれでしょう。しかし動機は何であれ、歩いているうちにあれこれと思索が始まるのです。思索、思考、思惟、思料、もの思い……散歩しながらの思い巡らしは、強制ではなく飽くまで任意、いやむしろ上述の「不随意的」に近いものでしょう。知らず知らずのうちに、身にも心にも何らの拘束も覚えず、テーマも限定せず、あらゆるジャンルや事柄に興味関心の中心点を移動させながら、自律と他律の不可思議な平衡状態において思索は開始されるのです。してみると、散歩自体が持つ性格と、そこで生まれる思索の特徴とは大いに重なるところがあるように見えますが、はてさてどうでしょうか。
さらに話を進める前に、先ずはこの「散歩」という言葉について。他にも、逍遥、散策、漫歩、そぞろ歩き、遊歩、足任せ等々の別語があります。これらの言葉が意味するところを最大公約数的に表現するならば、「特段明確で強い理由・目的・意思がある訳ではないが、ふと当てもなく、ついついぶらぶらと気ままに歩き回ること」とでもなりましょうか。かくいう行動をして今回は「散歩」を定義することにします。
学生時代に過ごした北陸地方では、「弁当忘れても傘忘れるな」と言われるぐらいの土地柄、大概の人が気まぐれ天気に用心して傘持参で出かけていました。散歩時だけでなく、出勤や登校の時、また家路を急ぐ時など、皆それぞれが意匠の異なる傘を手にして街を歩く姿は、ある季節を物語る光景として強く印象に残るものだったのです。
私も御多分に漏れず、左肘を曲げ、そこに少し大きめで長い雨傘の手元(ハンドル)を引っかけて、前方斜め下のレンガ道を見つめながら散歩していた思い出があります。紅葉樹が続く並木道にも、夕方頃となれば早めに街路灯が点き、そこはかとない寂しさをたたえた街の空気に一層の情感が満ちていくのがわかります。そこをただ物静かに歩いていると、やはり思索は始まるのです。勿論、あれやこれやと頭を使い、思い、悩むのが若者の「当然」の在り方なのでしょうが、老若男女を問わず、散歩や徒歩をする人は誰であれ何事もないような平然とした顔をしていながら、実は例外なく深い思索に耽っていたのかもしれません。
散歩をしていると、これまでの体験、即ち得られた知識、出会った人々や出来事をひとつのきっかけとして、自然にもの思いが始まります。それは時として現実的・実際的な内容かもしれませんし、全くの夢想・空想・幻影の如きものかもしれません。何にまれ、広く広く、深く深く思索は繰り広げられ続けるのです。
気ままな散歩から始まる気ままな思考、思索。散歩や徒歩は結果として何をもたらすのでしょうか。歩くことの効用とはいかなるものなのでしょうか。18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーは、その自叙伝『告白』(桑原武夫訳 昭和40年 岩波書店)の中で、歩いて旅することについて次のような見方を記しています。以下、長くなりますが引用します。
「わたしがひとり徒歩で旅した時ほど、わたしがゆたかに考え、ゆたかに存在し、ゆたかに生き、あえていうならば、ゆたかにわたし自身であったことはない。歩くことはわたしの思想を活気づけ、生き生きさせる何ものかをもっている。……わたしの束縛を感じるいっさいのもの、自分の境遇を思い出させるいっさいのものから遠ざかることが、わたしの魂を解放し、思想にいっそうの大胆さをあたえ、いわば万有の広大無辺の中にわたしを投げ込んで、何の気がねも、何の恐れもなく、存在するものを結合、選択させ、思いのままに自分にしたがわせるのである。わたしは全自然を自由に処理する。心は一つのものから他のものへとさまよい、好きなものに結びついて同化し、美しいイメージにとりかこまれ、快い感情に酔う」。
まさしく正鵠を射た表現、散歩や徒歩の本質を突いた名文であろうと思います。私自身の散歩観もほぼ同様で、しかもそれは「歩く」という行動を伴なう散歩であれ、音楽を「聴く」という行動に伴なう散歩「的」なものであれ、等しくあてはまることだと考えます。私も、このように毎月長々と「駄文」を晒していますけれども、「駄文」とは言え、散歩から始まった思索の軌跡ではあるのです。もしかしたら、我々の日常生活も、大袈裟に言えば人生そのものも、起伏に富んだ道を行く散歩のようなものかもしれず、そんな散歩の途次に得られる思考の果実を、「ことのついで」にも文字に残しておくことの意義は決して軽からず……それ故に、かく書き記す文章も、散歩の効用たる思索を、ほんの偶然にも文字として残したものであり、また「ことのついで」の産物であるに違いないのでしょう。ただ、この「ことのついで」の産物、真剣かつ大真面目に思い考え抜いたことの上澄みを、拙いながらも必死に最適の言葉を探し求めて書き表そうとした結実なのであるということだけは付言させてください。(いやはやこれは自己弁明に過ぎましょうか。)
つらつらおもんみるに、散歩とは各人それぞれのものであり、故にそれぞれの散歩は各人独自の行動であって、そこで生じる思索も元来は各々の心身のうちに完結するものに他なりません。しかし、そうであるにせよ、その思索そのものが何らかのかたちで外に向けて発露した途端、「他者とのつながり」が生まれ得るのであり、賛同、反対、無関心いずれの反応を惹き起こすにしても、思考や思索は現実的な対他関係の前に置かれることになるのです。内的な思考が言葉を介在させて外なる世界に登場するということです。
先ほどのルソーは散歩の素晴らしさを謳うのですが、それを飽くまで自己の楽しみという枠内に抑え込もうとしています。彼は「自分の享楽したことを他人に語るために、なぜ現在の楽しみを失うのだ。読者、世間、いや地上全体、そういうものは天を駆けているわたしにはどうでもよかった」とし、数と力で圧倒されるほど「一時に雲のようにおしよせる」発想を書き記すことなどできないし、そんな暇などないと言います。「出発するときには、よく歩こうと思ったのみだ」とまで言い切るのです。
さはさりながら……さはさりながらです。そう仰るルソー先生、あなたほど他者を強く意識せずにはいられなかった人間はいますまい。どこまでも自己を、自己の世界を大切にしつつも、その世界すら他者とのつながりがなくては光輝を失うという事実を一番わかっていたのはあなただったでしょう。いや、恐らく実際のところあなたは、いつも自己と他者の関係に苦悩し、そこに思い巡らせながら散歩をしていたに違いないのです。結論めいたことを言ってしまえば、これ即ち、自分ひとりの散歩は、結果として他者の思考との交錯をもたらすということなのです。
……、と私も散歩しながら思索し、想像して、ついでながらここに書き記した次第です。散歩と思考漂流は原因と結果の関係にあるということ、同時に、どちらも似通った性質を有する人間行動であるということ、さらに外へ向けての自己表現欲に起因して、必然的に人間間の接触と交流にまで到達するということ……こうしたことを知り得た気がします。散歩をしていると思考が「ゆたかに」なったということでしょうか。
さて、口に出すのもいやになるほどの暑さに悩まされながらも、日々懸命になって作業に従事されていることと思います。どうにか今日一日を無事に働き終えて家路に就くことで精一杯だとしても、この季節である以上はある意味致し方ないことなのかもしれません。
ただ、時の流れは止まらず、既に今期第72期も2ヵ月が終わろうとしています。この時の流れは思いの外急流で、油断しているとあっと言う間に先へ先へと流されてしまいます。こうした状況にあっても、単に時の流れに身を任せるのではなく、自分なりに船の舵を切り、あるいはまた浮き身を工夫しながら、自身の仕事を完遂しなければならないと考えます。
気象条件が厳しさを増す中にあればこそ、様々な事態の変化に思いを巡らし、想像力を働かせて、先手先手の対策を心掛けるにしかずです。後悔することのないよう己の仕事を仕上げていきましょう。
時節柄、くれぐれもご自愛のほどを。ご安全に。