IWABEメッセージ
第92回「極めれば回帰する」
高校時代の同級生H君は、国内だけでなく海外でも名の知れた木工作家です。彼は、なかなかユニークな経歴の持ち主で、大学卒業後20年以上衣料品会社に勤めていましたが、ある時人生の一大転換点を迎え、一念発起して退職、職業訓練校に入って木工家具の製作技術を学ぶ道を選択したのでした。その後は製作活動に励み、木製スピーカーや木製家具など、大作から小品に至るまでオリジナリティに溢れた作品を世に送り出し続けています。音楽を愛する心、音響へのこだわり、木材への信用と寄り添い……それらすべてが彼という人格を通じた技(わざ)によってカタチを得ているのでしょう。彼はまさしく「音と木に魅入られた工匠」なのだと思います。何ら電気的仕掛けのない木製スピーカー。そこから流れてくる優しい音色に人々の心は敏感に反応するのです。心奥に感動を呼ぶ作品なればこそ国内外からの引き合いが多く、今この時も、彼は製作と出品で多忙な日々を送っているであろうと想像するに難くありません。
そうした超多忙なH君が県内のイベントに出品しているという情報を耳にし、久々に彼に会いにいこうかと会場へ足を運びました。会場は沢山の人々で賑わっており、雑踏の中をくぐり抜けていくと、静かに奏でられるジャズの音色が聞こえてきました。音楽に導かれて辿り着いた空間は多少なりとも落ち着いた雰囲気で、その一角にH君の出店スペースを見つけました。聞こえてきた音楽の発生源は、見本用に置かれていた木製スピーカーでした。そこにはスマートフォンが差し込まれており、端末から出力されるシャープでクリア、しかし機械的で無機質な音が、音響工学に基づいて設計された純木製スピーカーを通すことで、実に心地よい、深みと味わいのある、優しくふくよかな音に変換されて、行き交う人々の耳朶に響いていたのです。夾雑物を一切排除した鋭い音は、音そのものの純粋さが確保されているようで、逆に純粋に音を楽しんで鑑賞する世界とは隔たりがあるような気もします。彼の発案した木製スピーカーは、「音を楽しむ」に最適な一品であるのでしょう。
「久しぶり!」とお互いに挨拶したところで、ひとしきり音楽とそれにまつわる機器の話に花が咲きました。H君は、仕事柄最良の音を追求していく中で、ジャズはジャズの、クラシックはクラシックの持つ特有の音の素晴らしさや美しさに出会うことができたと言います。そのため、普段に聴く音楽のジャンルは相当に広がったとのことです。以前には関心の薄かったジャンルの音楽、その面白さや値打ちが、まるでラジオの周波数がピタリと合った瞬間のように、驚きと喜びをもって体感されたのでしょう。何と魅惑的で心揺さぶる旋律か!何と多彩な音楽家達による多様な演奏か!H君が興味関心の対象を拡げている、しかもその対象との出会いが運命的な場合も然り、背景には必ず強い好奇心があるはずです。好奇心こそが神羅万象に向き合う際の力の源泉に他なりません。思うに、知ることの感激と知らずにいたことへの後悔は、ともに好奇心に比例して大きくなるのでしょう。
ところで、H君の話には、もうひとつ興味深いものがありました。「最近レコード人気が大変なことになっている」と言うのです。レコードとはビニール製の「アナログレコード円盤(音盤)」のことで、レコードプレーヤー上で回転する「LP盤」や「シングルレコード(ドーナツ盤)」とレコード針とが接触して音声が再生されます。CDに続き、シングルCD、MDが登場するのに前後して市場から退場を余儀なくされましたが、今では音楽データだけをダウンロードして聴くというやり方が主流となっているため、CD等すら退場の危機にさらされています。そんな状況下のレコードだと言うのです。また、レコード盤本体に加えて、収納ジャケットやライナーノート(解説文)の存在も人気と「価格」を高める重要な構成要素となっている様子です。何故レコード人気なのか。彼によれば、デジタルで再現される音は高音域と低音域がカットされてしまっており、もっと音域が広く豊かな音を求めるならば、アナログレコードへと至るのだ、と。さらに、本物の音を追い求める動きはLP盤に止まらず、なお遡ってエボナイト製の「SP盤」にまで及び、再生機器にいたっては、いよいよ蓄音機を到達点と考えるムーブメントが見られるのだ、と。音を極めると、デジタルの極致にではなく、アナログの始点に戻るということでしょうか。彼の木製スピーカーは、その問いへのひとつの答えなのかもしれません。
日本酒に「吟醸酒ブーム」がありました。日本中の酒蔵は競って吟醸酒造りに乗り出し、その流れは今に続いています。かつて北陸の酒造メーカーが、原料米を極限まで精製した大吟醸酒を発売しました。1升10万円。その金額に先ず驚いたのですが、そもそも一体どんな味がするのだろうと気になっていたところ、ある温泉旅館の棚にそれが鎮座する姿を目にし、旅館の方にあれこれ尋ねているうちに、「少し飲んでみますか?」と試飲を勧められました。これ幸いとばかり、お猪口1杯分だけ頂戴しました。その味はと言うと……「これは水ではないか」。人間は生きるために水が不可欠で、水を飲んで生命維持します。水によって生きる人間が、喜び悲しみとともに飲む「酒」を産み出し、改良を重ねて「銘酒」を追求してきました。当地方の酒造メーカーにお勤めだったBさんが「酒造りを極めると味は水に到達する」と仰っていたことを思い出しました。極めた先が飲み物の原点たる水であったという話には唸るしかありません。
「法三章」という故事成語があります。古代中国王朝の秦は、山ほどの厳しい法令によって国を治めようとし、その苛烈な圧政に人々は苦しんだため、秦を滅ぼした漢王朝は秦時代の諸法令を全廃し、法は三章だけで十分だとしました。即ち「殺人は死刑、傷害と窃盗は程度に応じて罰する」というものです。法の網を隅々にまで張り巡らし、重罰をもって民衆を脅迫するという統治の仕方も、それが行き過ぎ、極まった結果、最もシンプルな法制度が定められるに至ったのです。国は法のみによって治まるにあらず、という考え方なのでしょう。もっとも、後になって統治上の不都合が生じたため、法令の数は増えていくことになります。
「シンプルさこそ究極の洗練なり」とはレオナルド・ダ・ヴィンチの言ですが、私はここで、複雑さ(complexity)を極めた先にあるシンプルさ(simplicity)について考えてみることにします。
さて、技巧を凝らし、様々なものを付加して複雑化していくと、遂には始発にあった原点に回帰していくことになるようです。回帰と言いましたが、それは振り子のように一方の極へと振り切ったのちに徐々に加速して他方の極へ戻っていくようなものなのか、それとも円環のように一方の極に至ると一挙に他方の極へと移行して繋がるようなものなのか……どちらの場合もあるでしょうし、動きが止まらない点ではどちらも同じです。まさしく「永遠」に振れ続け、または回り続けて、いつか来た道を何度でも歩くことになるのです。振り子か円環かは、畢竟人々の時々における思い、考え方、視座の変動に依るのでしょう。比較的緩やかで着実な変化を求める状況ならば振り子のように、苛酷極まる環境の一刻も早い変化を求める状況ならば円環のように事態は把握されましょう。勿論、焦慮や緊張とは関係なく、無意識のうちに振り子や円環の軌道に導かれるということもある訳で、常に人間が主体的に(任意に)行動選択できる事柄であるとは限りません。ただ、主体性の程度はともかく、我々の生涯は、大河の流れのうちにあるのか、ぐるぐる回りながら少しずつ上を目指していく螺旋階段の途上にあるのか、これは簡単にはわかりにくい問題です。
そこで最初の話に戻ると、音響を極める技法としてデジタルが世を席巻するも、極致としてはアナログの始点に戻るという見解がありました。もし、デジタル化の趨勢自体は不動であるとするならば、アナログの再登場は単なる懐古なのでしょうか。それともやはり、アナログそのものが主人公として世に再登場するのでしょうか。極めていない人から成るマジョリティにも、極めた人から成るマイノリティにも、それぞれに言い分や理屈があるでしょうし、どちらも全否定されることはないでしょうが、人間は生来、何かを極めようとし、極めた先に素晴らしく傑出した何ものかがあると直覚する(または願望する)性質を持っています。どうやらここでは話をもう一歩進めて、人間と「極める」という行為との関係にまで踏み込んでみる必要がありそうです。
振り子であれ、円環であれ、それは人間がひとつ所に止まり得ず、従って、結果として常に今の自分に確信が持てず、悩み、逡巡し、一応の理屈づけで一定の方向に動き出すのを繰り返さざるを得ない生き物であることを説明する言葉に過ぎません。また、これまでの人生を通じて獲得した経験則の蓄積があっても、それが時に通用せず、時に忘却されてしまうため、善行も悪行も再演してしまう生き物だということを便宜的に表現する例えに過ぎないのです。人間のこれら一連の営みは、自らが不完全なるが故に完全を求めてさまよい、場合によっては己を完全であると誤認し(自惚れ)、それがためにひどい愚行・蛮行を惹き起こしてしまう性(さが)の所産に他なりません。「永遠」の相の下に繰り返される、おかしくも悲しいドタバタ劇で充溢した空間にこそ振り子や円環が現れます。いや、自分達の行ないが、言わば振り子や円環のようなものであったと人間なりに反省して後付けで結論づけるだけなのかもしれません。重要なことは、望もうが望むまいが、人間はこの振り子や円環からは逃れられないということです。逃れたつもりが実はそのど真ん中にどっぷり浸かっていただけ、「自由」の旗手よろしく振る舞っていても、所詮は振り子のように揺れ、円環の中でぐるぐる回りながら、喜怒哀楽の瞬間を無数に経験していくうちに、はかなくもその生を終えていくだけなのです。
しかし、そうした大きな宿命に束縛されているのが人間の嘘偽りない姿であり、だからこそ人間とは、どこまでも興味の尽きない対象たり得るのでしょう。全くもって面白い……。
第72期後半戦も、はや2カ月が経とうとしています。
時の経過は経験の積み重ねを生み、独創性を育みます。仕事に面白みも増すでしょう。そんな頃になると、慣れと慢心が見え隠れし始め、油断が生じがちになります。事故や災害、トラブルが発生する危険が急に高まるのです。
仕事を極めていくプロセスにおいては、技術力や能率は向上し、専門的な知識や思考は一層高度化・複雑化していくものです。しかし、さらに極め続けていけば、とてもシンプルな事柄に出会うことになります。それはすべての応用に先立つもの、「基本」です。あらゆる仕事が成り立つ前提、1丁目1番地が「基本」なのです。極めた果てに再会する「基本」の重大性や「ものすごさ」を改めて認識すること、これ即ち原点回帰。
要は「初心忘るべからず」であり、常に「凡事徹底」せよということです。極めようとしつつも忘れずにあれ。そうすれば最先端と始点がつながる時が訪れるでしょう。ご安全に。