IWABEメッセージ
第95回「続続・ある対話」
久々登場AとB。彼らは、今住んでいる街や就いている職業を異にしますが、昔からの友人で、時々会っては「雑談」に花を咲かせます。さてさて今日はどんな花を咲かせることか。
A「かくして世間の関心は、徳川家康から紫式部へと移った訳だな。ただ、当地方は郷土三英傑などの戦国武将が生まれた地でもあるし、ゆかりの名所旧跡も多いんで、家康の方に馴染みがあるというのが正直なところだね。紫式部とか『源氏物語』(以下『源氏』と表記する。)などとは縁が薄いような気がするなあ。まあ、『源氏』の読者は多いんだろうが。」
B「日本四大絵巻のひとつ国宝『源氏物語絵巻』は平安末期の作品で、現在は名古屋の徳川美術館と東京の五島美術館に所蔵されている。部分的な絵や詞書(断簡)は何カ所かで所蔵されているんだが、やはり徳川美術館所蔵のものが一番多い。徳川美術館は家康の財産分けで尾張徳川家に贈られた『駿府御分物(すんぷおわけもの)』を核として発展した美術館であり、膨大な古文書・典籍類については名古屋市立蓬左文庫に移管され、そこには河内本系写本の『源氏』が所蔵されている。当地方と『源氏』とのつながりを示す一例だよね。」
A「時の権力者が古文書・典籍を蒐集したり、その解釈権を独占したりしようとするのは世の常だな。鎌倉時代に北条実時が創設した『金沢文庫(かねさわぶんこ)』(横浜市)が後の世にどうなってしまったのかを見てもよくわかることだよね。で、『カワチボン』って何だ?」
B「紫式部自筆の『源氏』は存在が確認されておらず、写本が残るのみなんだ。この写本には大きく分けて2つの系統があって、ひとつは今言った源光行・親行の親子が作った河内本の系統、もうひとつは藤原定家が作った青表紙本の系統ということになる。紫式部による『紫式部日記』も自筆本は確認されていないんだが、同時代の藤原道長の日記『御堂関白記』は自筆本が残っているんだよ。道長の書体はとてもユニークだよね。紙が貴重品だった当時のことだから、日記を書く習慣があったのは貴族などの一部の人に限られていたんだろう。藤原道綱母『蜻蛉日記』、藤原実資『小右記』、藤原行成『権記』などなど……。」
A「なるほどね。当地方も無関係な訳ではないのか。でも『源氏』を原文で読むのは至難の業だよなあ。以前に君に薦められた谷崎潤一郎の現代語訳で読んでみることにするか。清少納言を痛烈に批判しているという『紫式部日記』も面白そうだけどね。」
B「東海3県で言えば、三重・松阪の本居宣長にも触れておかないといけない。」
A「おっ、出た出た。35年の歳月をかけて『古事記伝』という『古事記』研究書を完成させた江戸時代の国学者、あの『宣長さん』だな。本居宣長は『古事記』研究で有名だが、何で紫式部や『源氏』と関係があるの?」B「宣長さんは『源氏』研究でも同じくらいに有名なんだ。彼は20歳頃から『源氏』に関心を抱き始め、いくつかの考証を記し、『源氏』研究書の草稿『紫文要領』を34歳の時に書き上げた。実に独創的な説に溢れていて、宣長さん自身も自信をもって著したものだった。この草稿は、のちに『源氏物語玉の小琴』と改名され、さらに加筆訂正がなされて『源氏物語玉の小櫛』として完成される。『源氏』研究の集大成だ。ただ、その総論部分は『紫文要領』がほぼ踏襲されているんだよ。」
A「恐らく大変な力作で、論点も山ほどありそうだから、簡単に教えてくれという言い方もどうかとは思うが、無理なお願いを承知の上で、ひとつ簡単に教えてくれるかい?」
B「『紫文要領』は上下2巻から構成されている。『紫文』とは紫式部の文章、つまり『源氏』のことだから、『源氏』の要点を扱う研究書ということになる。そこで最初に扱われる問題は、そもそも『源氏』の作者は紫式部なのか、ということなんだ。」
A「えっ?『源氏』の作者は紫式部じゃないのかい?」
B「諸説あるんだよ。まあ定説としては紫式部作となっているし、宣長さんも定説を踏襲する。続いて宣長さんは、『源氏』執筆の経緯や時期、父・藤原為時や夫・藤原宣孝の履歴、紫式部と藤原道長の関係などについて、様々な文献を参照しながら厳密な論究を展開しているんだ。本当に緻密に、粘り強く、妥協を許さずに論考を進める姿勢は、まさに宣長さんらしい特徴のひとつだし、知らないことは知らない、わからないことはわからないと正直に表明するところも、胡散臭い似非学者とは大いに異なる点だよね。」
A「勿論『紫式部』というのは本名じゃないよね?」
B「そのとおり。当時の女性の本名は、余程高貴な人は別にして、基本的には公表されていないし、されていても本当の読み方は不明なんだ。だから、中宮(后)の『定子』にしても『彰子』にしても、『ていし』、『しょうし』と仮に読んでいるんだよね。式部とか少納言とかは、身内の男性が就いていた役職から取った呼び方で、例えば清少納言は父・清原元輔の姓より1字取って『清・少納言』と通称されていたなんて話は有名だと思う。紫式部も、父が藤原姓だから本当は『藤式部』と言うべきではないかなどという見方もあるが、それはともかく、何故『紫』なのかということになると、『藤』だから『紫』だとか、『源氏』の登場人物名から取ったとかの説はあるものの、宣長さんの採用する説はこうなんだ。つまり、紫式部の母が一条帝の御乳母(おんめのと)だったので、紫式部は帝と乳きょうだいの関係となり、それを受けて帝が紫式部のことを『ゆかりの者なり』と仰られたのだが、そもそも古今和歌集の頃より『紫=縁(ゆかり)あるもの』という意味で言葉が使われていた背景があったため、帝の縁者の式部、すなわち『紫』式部と呼ばれた、と。」
A「そういうことか。それで、『源氏』はフィクションなのかどうかなんだが……。」
B「西宮の左大臣・源高明がモデルだ、なんて説もあるらしいけれども、基本的にはフィクションとされる。ただ、紫式部が人生で出会った人物や書物、遭遇した体験などを様々自在に参考としながら執筆したのだろうから、どの部分がフィクションでどの部分が史実かなんてことは、本当のところ後世の人間にはわかりっこないし、ひとえに紫式部の心の内にしか答えはない……宣長さんはそう考えているようだ。」
A「さすがに『源氏』という書名には一点の疑念もないだろうね?」
B「この物語の主人公のひとりは光源氏だよね。桐壺帝の第2皇子だ。高麗人の予言により帝位に就けず臣籍降下したため『源氏』姓を与えられた。『光る』とは容姿が眉目秀麗であることを称賛する言葉で、主人公は幼少期より光り輝くほどの美男子であり、実名で呼ぶことは恐れ多かったので『光る君』『光源氏』と呼ばれるようになったんだ。故に、この物語名は『光源氏の物語』だ、という考え方も出てきたのだが、紫式部自身が日記に『源氏の物語』と記しているし、その他の古文書の類いを見てもそうなっているので、書名は『源氏物語』と考えて問題ないとされている。」
A「本居宣長と『源氏』と言えば、やはり『もののあわれ(もののあはれ・物の哀れ)』論が有名で重要なんだろ?この『もののあわれ』という言葉は、聞いたことはあっても、意味は難しくてわかりにくいね。細かいところはともかく、さわりだけでも教えてくれ。」
B「僕だってまだまだよくわかってはいないよ。『もののあわれ』という言葉が最初に使われたのは紀貫之の『土左日記』だという説がある。ちなみに『大和心(やまとごころ)』という言葉が最初に使われたのは赤染衛門による夫・大江匡衡への返歌の中で……。」
A「それで、『もののあわれ』なんだが……。」
B「『もののあわれ』とは、元々は「ああ、はれ」という感動の声を表す言葉から来ていて、この世のありとあらゆる物事に内在する本質のことをいう。和歌や物語にだけでなく、容姿、有り様、衣服、器財、風景、動植物、生死、禍福、喜怒哀楽等々、すべての事物や事態にも内在するとされる。そうした事物や事態を体験した時に、その本質を自分の心で素直に感じ取って理解・認識することを、宣長さんは『もののあわれを知る』と表現しているんだ。」
A「具体的にはどんな例が挙げられているのかな?」
B「『紫文要領』の受け売りばかりで申し訳ないんだが、例えば肉親が亡くなって悲しんでいる人のことを見たり聞いたりして、『ああ、何と悲しいことだろうか』と推し量ることができるのは、悲しみの本質を知っているからで、そういう本質を知る者が、悲しみに沈む人のことを見たり聞いたりして、自分の心の内に悲しみを感じ取ることを『もののあわれを知る』と言っているんだ。」
A「それなら、悲しみに沈む人のことを見聞きした時に、心から悲しいと感じ、それによって悲しみの本質を直知するという場合もあるだろう?」
B「その場合も『もののあわれを知る』ことになるんだろうね。どちらにしても、物事の本質を感知していなかったり、感知するアンテナのスイッチをオフにしていては、ありきたりでお仕着せの勧善懲悪論に寄りかかって諸事判断するだけになってしまうんだろう。『源氏』が『もののあわれを知る』に格好の書物だということは、『源氏』自体が一般的な儒教・仏教の価値観から解放されているところでこそ真に味わうことができる作品だということを意味するんだ。『もののあわれ』は論理ではなく、抑えがたい自然の心情によって知る対象なんだよ。」
A「木石をただの木石として見るのか。木石の内にも何かが宿ると見るのか。何だかそんな感性というかメンタリティーのようなものの意義を問われているような気がしてきたよ。」
B「今君が言ったような感性やメンタリティーを持つのが前近代的で、持たないのが当世風の『進んだ』ことだという考え方は、全くもって無味乾燥、冷徹の極みだし、人間味や人間性の喪失に直結するね。個々人の生き方だとして、些事にこだわらず、『鈍感』であることも時にはよいことなのだろうが、かと言って、事物や事態に向かう鋭敏で繊細な感性、豊かな想像力、その深奥を見極める眼力を失うことを正当化はできないんじゃないかな。」
A「本質を知ると言っても、そう簡単なことじゃないけどね。好運にも直感的にわかる場合もあるかもしれないが、人生の全体験をもってして、しかも熟慮・深慮を重ねた上でようやくわかるのかもしれない。要は安直にはわからないということだ。」
B「仕事をしていても、色々な人に出会い、様々なモノに囲まれる。それらに対峙した時に、人をただの人として、モノをただのモノとして見て、表面的な感想を持っただけで終わってしまいたくはないよね。その内に宿る『心=本質』を知れば、実に豊かな気持ちで世界を見つめられるようになると思うんだ。」
A「まさにそうだろうね。いやあ、何だか『源氏』を読んでみたくなってきたぞ。早速本屋さんへ行くよ。ま、今日の話はこの辺でおしまいにしようか。じゃあ、ご安全に。」
B「是非とも感想を聞かせてくれよ。ご安全に。」