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第96回「朝の風景」

 特別な予定がない限り、出勤時刻は毎朝ほぼ同じになります。毎日決まったテレビ番組の決まった企画コーナーを時計代わりにして流し見しながら、画面片隅に表示されている時刻を確認の上、「さあ、行くか!」とひとつ気合いを入れて自宅を出発します。マンション住まいなので、エレベーターを使って1階へ行くべく「降りる」ボタンを押してしばらく待っていると、上階からエレベーターが降りてきます。その中には「先客」が1名乗っていますが、大体いつもその人と乗り合わせることになるのです。確かに、毎日決まった時刻に出かける人間は私だけではなく、他にもそんな人は沢山いる訳で、毎朝顔を見合わせて挨拶する人がほぼほぼ同じだったとしても、それ程に不思議なことではないでしょうし、ある意味必然的な出来事と言ってもよいぐらいでしょうから、その時に何故だか奇妙な感覚に襲われるとしたならば、それこそ奇妙なことではないかと一笑に付されそうな気もするのです。しかし、そもそものところ、全くの必然をただ不思議がっているだけなのか、それとも必然とされるものが実は偶然の集積であることを感じ取っているのか……はてさて、そんなことを考えれば考えるほど、どんどん「思考の沼」にはまっていってしまうようです。
 同じタイムスケジュールで動き出すのは大人だけではありません。保育園児、小学生、中学生、高校生等々の子供達も同様に動き出すのです。特に小学生達は朝から元気で、賑々しい笑い声が聞こえてきます。黄色い帽子にランドセルを背負った子供達が集団登校の集合場所になっているマンション玄関前ではしっこく動き回っている様子は、何とも楽し気で、また、その場をとても明るくしてくれます。そんな朗らかで陽気なさまに少しだけ目を配り、駐車場へと向かって車に乗り込もうとすると、丁度ご近所のご主人も愛車に乗り込もうとしていますので、毎日のことですが遠くから軽く会釈をしたあと、乗車してエンジンをスタートさせます。スタート・キーを押すと聞こえてくる静かな機械音が出発の合図です。今日はラジオのニュース番組を聴くことにしましょう。アクセルを踏んで、さあ発進!
 車窓から眺める朝の街の景色。すべてがほんの今さっき活動を開始したかのように見えます。もっと早くから動き出した人も沢山いることでしょうが、そうだとしても私には街がたった今呼吸を始めたように感じられるのです。各家庭も、自動車も、自転車も、歩行者も、電車やバスも、急にスイッチが入り、静止モードから運動モードに切り替わったかのようです。ただ、運動モードに入ってからのスピードはそれぞれ異なっています。ゆっくりゆっくり徐々に前へと進む人や、周囲の状況を窺いながら少しずつ速度を上げていく人がいる一方で、時間がないのか妙にせかせかとして、隙あらば他者を追い越そうと無理な突進を試みる人や、どれだけ時間が短縮できるのかは不明ながら、とにかく速度を上げようとする人もいるのです。まさに千差万別、十人十色という言葉どおりでしょう。そんなこんながひとつの街の中に同居し、それぞれが別の方向(目的)へと向かって動き出すのですから、静穏な朝なのか、喧騒の始まりなのか、見方によっては何とでも取れますし、故にそれは何とも可笑しな情景であるとともに、人間の性(さが)や業(ごう)のようなものが垣間見えてしまう悲しい光景であるのかもしれません。
 信号待ちする間、窓外に見える歩道の歩行者、対向車の運転手、バスの乗客達など老若男女の顔、その表情……。彼らは一体何を思い、何を考えているのでしょうか。バスと言っても、最近では路線バスの便数も減っていき、企業の送迎用バスぐらいしか見かけませんが、それでも時々は路線バスに出くわすこともあります。どちらにしても、複数の人を乗せ、どこかへ送り届けようとしているのですけれども、ひとつの大きな乗り物に何の縁あってか同乗する人々は、一緒になって同じ道をひたすら進んでいきつつも、全く別々の人生行路を歩んでいるのだなどと今更ながら想像してしまうのです。元気溌剌、気力体力充実といった人ばかりではありません。疲れがたまっているのか、睡眠不足なのか、窓にもたれかかって目を瞑っている人もいます。これから先、楽しいことや夢いっぱいの希望に満ちた状況が待っている人もいれば、悩みや不安から解放されず、心が鉄鎖で縛り付けられたように沈み込んでいる人もいるでしょう。家族に「行ってらっしゃい!」と気持ちよく送り出された人がいて、大ゲンカをした挙げ句腹立ちまぎれに扉を叩きつけて家を飛び出してきた人もいるはずです。早朝から何やかやと思考回路をフル稼働している人と対照的に、夢現の境をさまよい、ほぼ「無思考」の時空に漂っている人がいてもおかしくはありません。しかしながら、表情だけでなく、歩くスピードや出で立ちなどに、その人の性格や趣味嗜好の一端を窺い知ることができたとしても、一瞬の一見で万事見透せるはずはありせん。所詮は当て推量です。でも、そんな当て推量や想像の中に、もしかしたら事実やら真実やらに合致するものが多少なりとも含まれているとすれば、普段は他愛のない想像の類いも、全くの無意味・無価値とは言えないでしょう。
 「今日は何も聴かずに静かに行こうか」と思う日もままあります。そんな日はオーディオをオフにして、ただ黙々と運転するのみです。静寂そのものがBGM替わりなのです。そうして毎日毎日ほぼ同じ時間に同じルートの道を行けば、途中に見かける(出会う)人々や街並みも同じように目に映る……ばかりではないことが、これまた面白いところでもあります。道中の新発見です。ほほう、ここに新しい店ができるのか、あれ、あの店は閉店してしまったのか、おや、真新しい看板が立ったな、そうか、桜の開花は近いな、何と、もう満開だな、いやはや、葉桜になってしまったか、ああ、衣替えの時季なのか……。入学式や始業式、終業式や卒業式などの日は、まさに「節目の日」であり、変化や変遷を実感できる絶好の機会となります。こうしてみると、年月の経過と季節の移り変わりの中で、有為転変という大きな宿命を背負いつつ、ただ黙然と一途に生き、終点を意識してもしなくても、真摯に「日常」を繰り返し続ける人々の様相に、不変と変化、「とこしえ」と「はかなさ」が併存しているさまが見え隠れしているような気がしてならないのです。
 朝の街、街の人々、人々の姿。それらの姿を見つめると、時に声援と拍手を送りたくなるようなこともあります。いつものバス停に佇む母娘の姿もそのひとつです。養護学校のスクールバスが到着するのを待っているのですが、うつむき加減で、少し不安げな我が子を励まし、明るく見送ろうとする母親の笑顔がとても印象的です。私もハンドルを握りつつ、心の中で「ファイト!」と声援を送ります。もう少し走行すると、足の不自由な社会人男性に出会います。雨の日も風の日も、杖を突き、一生懸命になって一歩一歩と先を急いでいきます。生活するためには何としても働かなければならない、だからどうあっても遅刻なんぞしていられない、という強い意志が伝わってくるようです。その姿を見て、近くの歩行者も、交通当番の女性も、静かにエールを送っているようであり、また男性の「懸命さ」からは逆にエールを送られているようでもあります。「エールの交換」です。「無事に電車に乗れたかな?」などと少し心配しているうちに、先ほどとは別の交通当番の人に遭遇します。高齢の男性が恐らくボランティアでやっているのでしょう。小学校が休みの日を除けば、どんな天気の日でも横断旗片手に集団登校の小学生達を誘導し、信号が青のうちに横断歩道を渡りきるまで見届けるのが彼の役目です。彼が優しく声を掛けると、子供達からは元気に挨拶が返されます。毎日の当番ですから、その姿を見かける度、本当に頭の下がる思いがします。もう少し進んでいくと、登校する子供を玄関先で見送る母親と祖母の姿に気づきます。年月経て、その子供は小学校を卒業し、中学校も卒業し、高校へ通い始めました。しかし変わらないのは、「おかあさん」と「おばあちゃん」が登校する子供に手を振っている情景です。手を振ると言えば、車で出勤する夫を、その妻が車の見えなくなるまで大きく手を振って見送る姿は、大雨が降ろうが傘を片手にしっかりと手を振っていることからしても、まことに微笑ましく感じられてなりません。
 これらの風景に共通するものは何か。それは、親、配偶者、交通当番の人、それに同じ時間帯に同じ空間を同じように共有している人々の優しい目の奥に宿る「無限大の愛情」ではないでしょうか。朝に遭遇する様々な場面のひとつひとつは、たとえ先を急ぐとしても万人の目に映り込むのであり、その瞬間、いやその瞬間でなくとも、いつか必ず何らかの感動を、しみじみとした思いを惹き起こしてくれるのではないかと覚えます。
 それぞれの人の、それぞれのあり方が描く生活の場面。この場面が無数に集積したものこそが世の中であり、社会であり、世界なのでしょう。しかしながら、それらの場面の主人公たる人々は、そんな理屈とは無縁のところで、日々「生の歩み」を重ねています。けだし、そこには素朴で何の飾り気もない「平凡」があり、ささやかな喜びがあり、時に大きな悲しみや苦しみも隠れているのでしょう。ひょっとして、それら一切をまとめての「ありさま」が実は「日常」なのでしょうか。だとすれば、人生においては、山も谷もあり、大波も凪もあるのが、ごく当たり前、ありふれたことであって、これ即ち「平生(へいぜい)」であり、「普通」なのであるという解釈に立つことになります。その意味で、平凡な日常の風景を見つめるということは、つまり人生の浮沈、悲喜こもごもすべてを目撃し、しかも意識的無意識的に心の奥深いところでしっかりと受け止めるということと同義であると考えてよいのかもしれません……などと取り留めのない思索に耽るうちに会社に到着しました。
 さて、これにて第72期も終了し、間髪入れずに第73期を迎えようとしています。期首・期末と言ってはいますが、それは決算上の区切りであって、それぞれの仕事は途切れることなく進行するのです。とは言え、期末というこのタイミングで1年間を振り返ってみることには、相応の意味があることでしょう。
 この1期は、あまたの困難、苦悩、不安、トラブル、理不尽なこと、想定外のこと等々で満ち満ちていたに違いありません。さらに、忙しさのうちに「光陰矢の如く」時間は過ぎ去っていったことでしょう。それ故に、この1期は特別だったという感想を持った人も多いと思われます。しかし、その「特別」が次から次へと頻発すると感じられる日々を過ごさざるを得ないのが、一般的で普通の人々、つまり誰あろう我々であり、また、そもそも「特別」が頻発する方が当然のこと、常なることであると捉えるべきなのかもしれません。
 我々はただ、この「平凡ならざる平凡」、「日常的ならざる日常」に生きるのみです。仕事もまた然り。これら所与の条件下で、自分なりにやれる限りのことをやり切り、個性や独自性を加味しながら仕事を仕上げ、目標を実現していく。来期もこれに徹したいと思います。
 何はともあれ、今期1年間、本当にご苦労さまでした。来期も引き続きよろしくお願いします。ご安全に。

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