IWABEメッセージ
第102回「皆勤賞」
本棚を眺めていたら、奥の方に丸筒が何本か置かれているのが目に入りました。丸筒は、その中に証書類を入れれば「証書筒」、賞状類を入れれば「賞状筒」と呼ばれます。また形状からして円柱型のものが「丸筒」で、四角柱型のものは「角筒」と名付けられています。本棚にあったのは丸筒の証書筒5本でした。懐かしくなって中味を全部取り出してみると、証書やら賞状やらが一緒にまとめて入れられていることがわかりました。長い間くるくる巻かれていた証書類を広げて見るのは一苦労で、なかなか真っ平になりません。それでも一枚ずつ丁寧に伸ばしてみます。大昔の古文書を見るようです。中から出てきた書類の主だったものを列挙すると、保育証書(卒園証書)、小学校・中学校・高校の卒業証書、学位記、剣道の免状、町民剣道大会の表彰状、校内写生大会の表彰状等々となります。今となってはすべてが遠い過去の記録です。
昔は、卒業式に授与された証書を慎重に巻いて専用筒の中へ収め、その筒を片手にして校舎に別れを告げたものでした。卒業式ごとに丸筒の数は増えていき、他にもあった賞状の類いをそれに併せ入れ、思い出もろとも蓋をして本棚の奥へしまっておいたのでしょう。その意味で、これら紙製(またはプラ製)の丸筒は、思い出箱ならぬ「思い出筒」なのかもしれません。もっとも、最近の卒業証書などは、折り畳み可能なファイル型のものが人気のようで、巻いたり伸ばしたりする必要がなく、棚に立てておけば保管も楽なため、扱い易くてスマートなファイル型の方がどうやら主流派の座を占めていくことになりそうです。私なんぞに言わせれば、昔ながらの大判用紙に毛筆で書かれた立派な文字が並び、濃くも鮮やかな朱色の印鑑が押された証書の方が重みもありがたみもあってよいとは思うのですが、それはそれとして、当世風のものも何となく格好よいななどと感じているところからして、どうやら昔人間の心中には僅かばかり憧れが生じているようではあります。
ところで、それらの証書類の中に混じって皆勤賞の賞状がありました。高校時代のものです。私自身すっかり忘れていましたけれども、「そうか、3年のあいだ欠席も遅刻も早退もなかったのか」と少しだけ感慨に耽りました。これは勿論、私ひとりの力でなし得たことではなく、健康のうちに学校へ行けるよう日々気を配ってくれた家族、通学で利用した電車の鉄道会社の皆さん、学校の先生や用務員の方々、先輩や後輩を含めた友人達、その他学校生活に関係した様々な人々、それに学校施設そのもの、もっと言えば、通学路という名の道路、自宅と駅の往復で利用した自転車、いつも着ていた制服……つまりは日常生活の維持を可能にしてくれたすべての人や物の「おかげ」によるのです。皆勤賞はその「おかげ」あってのものであるが故に、他者へ心から感謝するよう諭す賞であったとも言えるのでしょう。ただ、思い返してみれば、その皆勤賞の「皆勤」もかなり危ういものでした。高熱を発しているのに気合いひとつで通学した日があったように記憶しています。周囲に迷惑をかけたかもしれず、それはとても褒められたことではありますまい。しかし、そうまでして登校したのは、何も皆勤賞狙いだったからではなく、学校へ行くという自分のペースを崩したくなかったからという単にそれだけの理由でした。授業や部活動、先生や友人達から離れたくなかった、そんな我儘な欲求、賞とは無縁なるも明らかな我欲に依るものだったと言い換えてもよいでしょう。ともあれ、そうまでして行きたいと感じさせてくれた学校や人々、即ち学びの環境に運よく巡り会えたことを先ずは素直にありがたく思うのです。
そもそも皆勤賞とは、一定の期間を通じて無欠席(無欠勤)、無遅刻、無早退だった者に出される賞ですが、学校や企業などが任意のルールで定めているものであり、統一した基準がある訳ではありません。皆勤賞に少し及ばなかった者に与えられる精勤賞にしても同じです。昨今では、皆勤賞も精勤賞も批判的な文脈で捉えられることが多く、無理な登校を助長するとか、ある種の精神論につながるとか、生来の不平等への配慮に欠けるとか様々な意見が出されています。確かにインフルエンザなどの感染症に罹っていても無理に登校したとすれば、本人だけでなく他者の健康にも悪影響を及ぼしかねません。(自身反省しています。)現在では、そのような感染症に罹って休む場合は、忌引と同じく「公欠」扱いとされ、欠席にはカウントされていないとのことです。
このように現代社会では、出席や登校に関する考え方は大きく変わってきています。勿論、健康に問題なく、人間関係に悩みもなく、金銭的にも支障なくして授業や部活動に注力できる人は、当たり前のように今日も明日も明後日も登校できるでしょう。しかし、この世の中、そんな児童、生徒、学生ばかりではありません。何らかの事情で登校できないこともあって、その場合、無理に登校させるのではなく、ひとつひとつの問題に向き合って「焦らずに」解決の道筋を模索しようとする、つまり、特定のあり方を絶対として強制するのではなく、何らかの形で学びの道、いや人生の道を歩一歩と前へ進んでいくことができるように皆で知恵を絞ろうとする、これが現代社会的スタイルとなっているのです。ですから、昔ながらの皆勤賞コースで行ければ何よりその環境と運に感謝すべきなのでしょうが、現代社会では、それと等価値のコースが各人各様にあるという考え方こそ主流なのです。当然のこと、いくら各人各様といったところで全くの得手勝手は許容されず、人間が本来的に有する大きな枠組から誰も逃れる(解放される)ことはできません。従って、その大きな枠組の中で個々人が自分なりのスタイルを追求して前へ進み続けるという意味での「自由」を我々は享受するのです。また、そのように「続ける」状態こそ、まさしく現代における「皆勤」と言えるのではないでしょうか。いつからいつまでの「皆勤」ではなく、常に歩みを止めずにいるという趣旨での「皆勤」、言い換えれば「常勤」です。
病に倒れていても、人間関係が八方塞がりになっていても、これから何をどうしたらよいのかわからず途方に暮れていたとしても、また、目の前には暗闇しか感じられず光明の存在なんぞ疑うしかないような状況にあったとしても、それでも何事かを考え続ける、悩み続ける、その「続ける」中において人生の歩みを続けている……これを現代の「皆勤」と名付けたいと思います。何事かをし続けようと意識して、あるいはまた、あえて意識せずとも、何らかの(思考を含めた)行動を、自らの可能な範囲内で続けていくという心身の営みです。昔ながらの皆勤賞対象者も、この営みを続けていたはずですから、当然現代の「皆勤」の範疇に包摂されるのでしょう。
ここまで来ると、現代の「皆勤」は、一応のところ人の幸不幸から少し離れて捉えられるべき事柄であることが見えてきます。言うまでもなく、心身の状態だけでなく、家族的、社会的に置かれた環境は、人によって大きく異なりますが、誰が主人公であれ、どんなにささやかな思考であっても、どんなに弱々しく小さな活動であっても、生命ある限り続けていくことは素晴らしく、そこには深大な意義があるのだ、と改めて認識すべきなのです。それぞれの理由で登校できない児童や生徒、または学生は、各々の立ち位置から考え、悩み、悲しみ、喜び、熟慮の一歩を踏み出そうともがき続けています。また、傍からすれば順風満帆に見える人も、何事かの継続を余儀なくされているかもしれません。もしかしたら両者とも、積極的に何事かに挑戦し続けているのかもしれません。くどいようですが、現代の「皆勤」は、その人なりの「継続」と同義です。ですから、バットとボールがあれば必ずホームランが打てるとか、大リーガーになれる訳ではありませんし、ペンと原稿用紙があれば必ず芥川賞や直木賞が取れる訳でもありませんが、それでも先ずはボールを投げ続け、バットを振り続けること、ペンを握りしめて原稿用紙に文字を書き続けること、こうした「継続」があれば「皆勤」なのです。「継続」のための第一歩を踏み出し、かつ格闘し続けること……これ自体が褒められるべきであり、光輝を放つのだということを、もうそろそろ我々は素直に認めようではありませんか。結果が出なければ「継続」は無意味で無価値ですか?「結果主義」とは何とご立派な主張でしょう!それは確かに会社の決算など結果が伴わなければ困る場面も多々ありましょう。それ故に、「結果が大事」というより「結果も大事」くらいに大らかに構え、ともかくも一歩を踏み出して「継続」することに一層光を当ててはどうかと言うのです。(「継続」なくして「結果」なし。「継続」なしに「結果」が得られても「まぐれ当たり」に過ぎません。そんなことを期待するのは博打打ちの発想です。)
我々は、現代の「皆勤」においても同じく多くの「おかげ」によって囲まれ、支えられているのですが、とは言え、ひとりひとりの「継続」に気付いてくれる他者が常にいるとは限りません。誰にも気付かれず、認められず、褒められもせず、人知れず黙々と自らの営みを積み重ねることもあるでしょう。時には、自分で自分を褒めてあげるしかないこともあるはずです。現代の「皆勤」は時に孤独なのでしょう。これは一面の真実であるとしても、その生きざま(スタイル)は専ら「孤高」として評価されるべきと考えます。
ここまでお話ししてきたことは、誰でもやっているような、ごく当たり前で新味のないことのように思われるかもしれません。然れども、旧態依然の大雑把な感覚や技巧を凝らした屁理屈をもって繰り出す現実離れした妄想によって社会を説明するのではなく、素顔の人間が平凡な日常のうちに積み重ねる地味で地道な、よって華やかさと無縁な営みの数々に注目して、現代人を見つめ直す必要性に迫られていることに果たして気付いているでしょうか。今一度我々は、温かで優しい眼差しの回復を請い求められているようです。
何十年も前の皆勤賞状を眺めていると、そこに書かれた文字ひとつひとつを通して、現代社会についての熟慮反省を要請されているように感じられました。つまり「よく考えよ」と。
さて、年末を迎え、この1年間を振り返った時に、皆さんは自分自身に、またはご家族に、さらには職場を同じくする人々にどのような「賞」を授与するでしょうか?
私自身は、先ずは会社の役職員の皆さんに日頃の敢闘への御礼を申し上げたいと思います。今期第73期も丁度半分が終わろうとしていますが、期首より各人が大変難しい課題を抱え、その解決のための悪戦苦闘が連続する渦中にあったことでしょうし、その状況は今もなお続いています。しかし、諸々の困難は、皆さんひとりひとりの持ち味や力量の総和=総合力によって必ずや乗り越えられるものと確信しています。その意味で、皆さんはひとり残らず全員が受賞対象者と言えます。本当にご苦労さまです。ありがとうございます。
結びに、平素より当社の「ものづくりの仕事」にご理解ご協力を賜っておりますご家族の皆様には、この場をお借りして心より御礼申し上げます。今後とも何卒ご支援ご声援をくださいますようよろしくお願い申し上げます。
それでは皆さん、来年も一致結束してがんばっていきましょう!よいお年を。ご安全に。