IWABEメッセージ
第11回「サンライズ・サンセット」
平成23年度EBI総会における特別講演の講師として森繁建さんをお迎えしたことがありました。ご存知のように森繁建さんは俳優・森繁久彌の御次男です。
森繁久彌(1913-2009)は私の最も好きな俳優の1人で、日本では空前の俳優だと評価しています。絶後と言えるかは後進の活躍の結果次第となるでしょう。
大阪出身、菅沼家から森繁家に入って「森繁久彌」となり(本名なのです)、早稲田大学に入学したものの軍事教練を拒否して退学(後年卒業が認められます)、この頃演劇を通じて知り合った東京女子大学の学生・萬壽子さんと結婚することになります。
NHKアナウンサー試験に合格して満州の新京に赴任、終戦後はソ連の侵攻による混乱の中命からがら帰国、その後は舞台、ラジオ、映画、テレビは勿論、歌手として、また作家・エッセイストとして大活躍をすることになります。博学多才、大陸で遥か地平を見つめた体験に影響された情感と哀愁に溢れる、また時として軽妙洒脱な演技。この演技により数々の表彰をされ、ついには大衆芸能演劇者(本人は嫌った表現ですが)では初の文化勲章を受章しました。
森繁と言えば、ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』抜きでは語れません。帝政ロシア期の寒村アナテフカに住むユダヤ人達が、戒律に基づく伝統(しきたり)によって生活のバランスを保ちながら、宗教的迫害に苦悩し、激変する時代の接近の中で新しい人生の地を求めて歩んでいくという楽しくも悲しいブロードウェイ・ミュージカルです。恐妻家で、5人の娘を抱える・牛乳屋テヴィエを森繁は900回も演じ、この役は上条恒彦、西田敏行、市川正親に受け継がれていきます。
私自身、何度も何度も観たので、台詞や歌を覚えてしまったぐらいです。
森繁の『屋根の上のヴァイオリン弾き』には、記憶によれば、こんなエピソードがあったはずです。
ある上演日の事、俳優陣の力強い歌唱と生オーケストラの迫力ある演奏が劇中を彩っているのに、開幕してからずっと客席の最前列で居眠りしている女性がいました。「役者や楽団員がこんなに一生懸命やっているのに寝ているとは何事か。よし、こうなったら何としてでも目を覚ましてやろう」とばかりに、森繁らは、特に居眠りしている女性の近くではより大きな声を出したり、足で舞台をドンドンと踏み叩いてみたりします。それでも居眠りしたままで目を覚ます気配はありません。とうとう劇は終わり、幕は下りました。「結局寝たままだったな」と森繁は多少憤慨しつつ、カーテンコールで再び幕が上がるのを待ちます。
幕が上がりました。多くの観客がスタンディング・オベーションをしています。その中で先ほどの女性も立ちあがって拍手をしているではありませんか。しかも目をつむったままに。
その女性は盲目だったのです。
森繁は自分の浅慮を恥じ、その女性に駆け寄って涙を流しながら握手し、一生懸命に耳を澄まして「感劇」してくれたことに感謝の言葉を述べたと言います。
数え切れないほどの作品に出演するとともに、多くの人々と交流するなかで福祉活動にも熱心だった森繁ですから、その瞬間には様々な思いが駆け巡ったことでしょう。
いかに頭の良い人でも、どんなに論理的な思考ができる人でも、論理の前提条件となる事実や情報を間違って把握していれば、誤った結論しか導き出せません。
先入観や短絡的な発想に囚われていたり、他者への配慮が不足していたりすれば、大きな誤解や感情的な軋轢が生じかねず、場合によっては人間関係が重大な局面に晒される可能性もあります。
仕事にしても同じことで、慣れや思い込み、それに「少しぐらい、自分くらいいいだろう」という安易な気持ちに起因する横着行為・近道行為によって作業を続ければ、その時点で基本的なルールや手続は横へ追いやられ、結果取り返しのつかない事態を招き、健康と安全を損うのみならず、信用と利益を失うことにつながるのです。
船は進行方向の設定を間違えれば、いつまで経っても目的地には到着できず、その航海は危険極まりないものとなってしまうのと同じことです。
『屋根の上のヴァイオリン弾き』第1幕の終わりでは、主人公テヴィエの長女ツァイテルが伝統(しきたり)を破って仕立屋のモーテルと恋愛の末結婚し、村の人々全員で祝宴を開くのですが、帝政ロシアの官憲による妨害で会場は滅茶苦茶に破壊されてしまいます。テヴィエは聖書を抱えて天を仰ぎ、神に向かって「何故なんでしょうか!」という心の叫びを無言のまま投げかけて幕は下ります。
そこで歌われる有名なナンバーが「サンライズ・サンセット(陽は昇り、また沈む)」です。「……陽は昇り また沈み 時移る やがて朝が来れば 花もすぐ開く 陽は昇り また沈み 時移る 喜び悲しみを乗せて流れ行く……」(S.ハーニック作詞、若谷和子・滝弘太郎訳詞)。
名優・森繁久彌がその人生で出会った悲喜こもごもの出来事。その態様に多少の違いこそあれ我々も出会うことがあるでしょう。それらの出来事もろとも我々は大きな時間の流れの中にあり、浮き沈みを繰り返しながら、力尽きるまで懸命に泳ぎ続けているのです。その時間が有限であればこそ、刹那刹那における出会いや判断、それと感動を大切にしていきたいと思います。ご安全に。